ニューヨーク・市内と近郊 2003.07.7 - 14

ニューヨーク・・・、松井くんのファンでもないので、今のこところ行く気は無かったのですが、強いお誘いがあって、久し振りに出かけました。

一日目:7月7日:飛行機はコンチネンタルを利用。実は初めてアメリカへ行った時にも利用したのですが、慣例に囚われない(当時、国内線のアルコールは有料だったのが、サービスで無料に、スチュワーデスが親しみやすい等々)スマートな接客が、いかにもアメリカらしく気に入りました。
今回、国際線でも機内のアルコールは有料でした。ヨーロッパ線は無料なので少々奇異に感じましたが、運賃を考えれば当然ですよね。
座席も綺麗で、相変わらず「私好み」という感じでした。

ニューアークの空港も綺麗。でも作業は「人力」を地で行くような超スローモーション。他にも到着した便があるらしく、入国審査は気の遠くなるような長蛇の列。通過するのに1時間以上かかりました。
一人一人、手を抜かずにパスポートと書類をチェック。大抵の人には質問もしていましたから、時間がかかるのは当たり前ですが、これもヨーロッパとは大違い。
私はパスポートに何枚もビザが付いているのですが、そのうちのパキスタンが係員の目にとまり、しかも「ビジネス・ビザ」だったため、何をしに行ったんだ、と厳しい口調で問い詰められました。パスポートには沢山出国記録がありましたので、「添乗員」として取ったビザであることを納得してもらい、無事通過、でもパキスタンに対する警戒感は相当なものと見ました。

ニューアークの空港では早速、聴覚障害。「コンチネンタル」の名前が全然聴き取れない、そしてニューヨーク市内へ行くバスの乗り場は何処って言いましたっけ、聞きなおしても分からん。日本で少しは耳慣らしをしてきたのですが、初日はやはりきつい。
それでも何とかバス停に到着。外は日本の梅雨時と同じように蒸して暑い。バスの行き先は二ヶ所しかないので、今度は大丈夫。早口、巻き舌の真似はとても出来ないので、自分なりのスピードで発音して行く先を確認。「おのぼりさん」多数のニューヨークのこと、私よりよほど酷い英語の人も沢山いました。

犯罪が多い、と言いながら、何でバスの中はあんなに暗いんでしょう。やって来たバスの窓は小さい上に、ガラスの上半分は黒く塗ってあるので、外の明るさは入って来ず、中の電気は暗い、初めて行った時のモスクワ空港を思い出しました。当時、あそこは泥棒天国とウワサされていました。
走り出してしばらくすると大渋滞。帰宅ラッシュにかかったのですね。
私は街中の Port Authority というところまで行き、そこから徒歩10分ほどの宿へ行きましたが、到着したのは空港へ着いてから4時間後になりました。所要時間だけを考えれば、成田のことは言えないヨ。
Port Authority バスセンターの辺りはさすがに(?)汚かったですね。ガイドブックには「長い間居ないほうが良い」と、治安が悪いように書いてありましたが、恐れていたほどではありませんでした。
それに、行くたびに治安は良くなっているようです。警官は日本よりよほど親しみやすくて、沢山いても気にならないどころか、安心でした。
宿まで歩いて行きました。道にはゴミが沢山、時々怪しい人もいましたが、まだ明るい夜8時ごろ、1人で歩いて行くのが恐くない、ニューヨークも変わりましたね。

二日目:7月8日私は今回、明日からニューヨーク州北部の Finger Lakes 地域へ行くお客さんのご案内のために、やって来ました。
それでフリータイムの今日第一の仕事は、日本から予約しておいた列車の切符の請け出し。ちょっと距離があったのですが、探訪も兼ねて、歩いて Pennsylvania Station へ行きました。 ペン駅ではありません。グランドセントラル駅の彫像
Pennsylvania Station 、通称ペン駅は、ニューヨークに二つある大きな駅の一つで、沢山の長距離列車の発着駅になっています。新しく出来たビルの中に組み込まれてしまったため、もう一つの中央駅(グランドセントラル)のヨーロッパ風の豪壮な外観には及ぶべくもありませんが、列車の行き先を見ていれば、フロリダを始めとする有名な地域の都市名が一杯、あ〜行きたくなってしまいます。
切符の発券器は、超簡単。日本からインターネット経由で予約してありましたが、その時に登録したクレジットカードを差し込むと、すぐに確認画面が出、二度ほどボタンを押すだけで切符が出てきます。予約時と違うカードを使うことも可能です。全部で7人分の往復、普通の大人とシニア(62歳以上)、往復でない人もありましたので、操作を何度も繰り返しました。
横を見ると、窓口は「群集」と言える位の人、予約は本当に便利です。

その後、ずっと前から、ニューヨーク発ハドソン河を北上するホテルバージ(船をホテルにして数日間移動するクルーズ旅行)を探していた私は、ペン駅にも観光局があったことを思い出し、行ってみました。

ここは小さな出張所で、期待したような資料はありませんでした。が、質問している私の視界の端に、サッと動く人の影・・・、帰ろうとする私を1人の男性が呼び止めました。
日本語勉強中、知人について日本語会話を勉強していると言う男性は、随分上手でしたが、フリー会話をする相手を探していたらしく、次から次へと話題を持ち出し、「まだ他に用事があるから」と私が切り出すスキを見つけたのは、何と一時間以上経ってから、立ちっぱなしだったので、彼と別れて外へ出たらクタクタでした。お陰でフリータイムの行程もメチャメチャ。

もうひとつ用事がありました。明日、いくつかのホテルから来る人たちと広いペン駅で待ち合わせをするのは不安、ということで、駅前の、その名もペンホテルで待ち合わせをすることにしたので、その下見です。ここは列車・バス・タクシーなど交通の便は最高に良いので、日本人のお客も沢山泊まっているようでしたが、ブロードウェイやセントラルパーク、五番街など、ちょっと楽しそうな場所からは遠いのが難点です。待ち合わせに必須のベンチなどを確認して帰ろうと思った目の前に、コンシエルジュの表示がありました。 さすがアメリカ!何と大きな自動車

折角ニューヨークへ来たのだから、ひとつぐらいミュージカルを見ようと思っていた私は、ちょっと立ち寄ってみました。
用事が終わった帰国前夜、帰りが遅いと不安なのでマチネ、と思って問い合わせてみました。現在一番人気のミュージカルは「Hair Spray」と聞いてきましたが、希望の土・日はやはりとても厳しそうでした。
でも、ここのオジサンはダフ屋も兼ねているのでしょうか、一番前の席を持っていました。但し、法外な値段で。
入手困難な切符の、その値段が妥当かどうか、すぐには判断しかねて、その場は遠慮して、ホテルの外へ出ました。 とても小さい警察車輌

外は暑く、私はこの日だけで真っ赤に日焼けしてしまいました。
今日の最初の予定はエリス島でしたので、とにかく南へ向かって歩き始めました。道を間違えたのか、中々地下鉄の入り口が見つからず、もうタクシーにしようかと思った頃、「NYPD」の印を付けた小さな車が目に入りました。
アメリカの車の大きさに圧倒されていた私には、昔のミゼットの前半分だけを切り取ったようなその姿が印象的、そして「NYPD」とはニューヨーク警察のことなのですね。
私の夫はアメリカ全州の州都訪問が夢で、中でも警察のロゴを集めるのが趣味ですから、この小さな車は良い土産話になるだろうと写真を撮ることにしました。 警官?組員?
車の置いてあるところは警察の出張所風。そこにいた警官に写真を撮りたいと言うと、何のためだ、と勿論訊かれましたが、夫の趣味、と言うと、呆れた顔でOK。ついでに彼の写真も一枚。アメリカ人らしく、ちゃんと気取りました。 良い子
カメラを仕舞って建物の角を曲がると、何やらビルの中らしからぬたたずまい。中には馬小屋がありました。ここは騎馬警官の駐屯所だったのです。
これは珍しい、こんな都会のど真ん中に、と中を覗いていると人が出てきました。小屋の写真をとらせて欲しいと言いましたら、待てと言って、わざわざ馬を一頭、ブースから出して連れてきてくれました。写真を撮った後には、鼻面を撫ぜてやってくれと言われ、思わぬ所でオウマさんと交歓会になりました。

路上はますます暑く、工事中のところも多いので、やっと見つけた地下鉄に飛び込み、マンハッタンの南端まで行きました。自由の女神のある島までのフェリー乗り場の駅ですが、ここも工事中、まるで工事現場そのままのような駅のたたずまいです。「フェリー」の矢印はアサッテの方向を向いていましたが、公園が見えたので、矢印を無視してそちらに向かいました。
海辺に沿ったバッテリーパーク公園の一角には海上警備隊の屯所、その右手から様々な場所へ行くフェリーが出ています。
公園の芝生の上にはリスが一杯。ニューヨークの名物はリス、と言った人があるくらい、リスは何処にでもいるのですが、ここの公園のは人を恐れることも無く、尻尾を大きく広げてくつろいでいます。
その先には、観光地らしい土産物屋の屋台が沢山。お決まりの風船、綿菓子、ハガキ、ポスター、縫いぐるみ、飲み物の他に、今ニューヨークでは流行っているらしい、中国風の習字=飾り文字のブースがいくつか出ていました。
暑いので、私はジュース。

フェリーの切符売り場がある建物は「Castle Clinton(クリントン城)」となっていましたが、これって大統領の名前を取ったのでしょうかね。
自由の女神のある島と、エリス島へのフェリーは同じです。夏は大混雑と聞いて心配していたのですが、思ったほどではありませんでした。様々な事件の後遺症で、やはり例年よりはすいているのでしょうか。

エリス島は、アメリカへ移民する人たちが必ず通って、様々な検査を受けた所。
フェリーは自由の女神の島とエリス島と公園を結んでいるのですが、エリス島を見るのにはかなり時間がかかるので、今までパスして、行かれなかった所です。

フェリーの切符を買おうとしたら、オーディオ・ガイド、しかも日本語があるというので、ついでにその券を買いました。フェリー料金が10ドル、オーディオガイドは、自由の女神のは要らないと思いましたが、ここでは両方のオーディオガイドを一括で売っていて、両方で6ドル、エリス島に行ってみたら、エリス島だけのオーディオガイドも可能でした。

覚悟はしていましたが、船に乗るのは結構大変でした。世界貿易センターの次にアメリカ人にショックを与えられる標的として、自由の女神はかなりテロの可能性が高いということで、あの事件以来、警戒が非常に厳しくなっているのです。
バッグ、カメラ、上着、そして自分自身がX線検査機にかけられるのは当たり前、ここでは帽子(私のヨレヨレの布製も)、腕時計も、はずしての検査の対象でした。
何しろ世界中のオノボリさんが集合しているのですから、言葉の通じない人も多く、緊張感にも差があり、係りの人も大変です。中でもラテン系の人たちは、家族でしっかり固まって、何でも集団でやろうとするので大変、X線のゲートも集団で通ろうとして、怒られていました。

検査は大変ですが、それを通ってしまえば、もう怪しい人は誰もいないわけですから安心、こういう割り切り方が良いですね。 ピューリツァーエッフェルバルトルディ

今回、自由の女神の中には入れませんでした。中には以前に入ったので、理由も聞かずに真っ直ぐオーディオガイドの所に行きました。
アメリカの独立を祝ってフランスから贈られた自由の女神像ですが、ここに建てられるまでには、当然のことながら様々な歴史があり、今回はオーディオガイドを借りたお陰で、設置されているプレート以上の詳しい説明を聞くことが出来ました。

女神像の土台の周りには、制作に関係した人々の像が並んでいます。
女神像の原型を制作したのはフランス・アルザス出身の彫刻家バルトルディー、冬のコルマールに彼の生家を訪ねた時にも、制作・移送にまつわる諸々が展示されていたのを思い出しました。原型はパリのセーヌ河に置かれています。
彼のほかにも、拡大した像の骨組みはエッフェルが制作したり、資金集めにはジャーナリストのピューリッツァが奔走など、両国挙げての大事業だったことが偲ばれます。 このように建造に直接関わった人達について以外にも、アメリカ独立のシンボルとしての女神の、スタイルや衣装、表情、立地に込められた意味など、女神の様々な来歴を聞くことが出来、オーディオガイドは思いがけない収穫でした。 励まされます、この力強さに

そのような感慨を胸に島から眺めるニューヨークの高層ビル群、独立のシンボルである静かな島から現代文明の最先端を見るのですから、アメリカの人々にとって、ひとしお愛しいものがあるのではないでしょうか。

エリス島行きのフェリーは20分毎に来ます。それ以外の船の発着は無いということで、切符のチェックはありませんが、半券は必ず最後まで所持しているように切符に書いてあります。

エリス島は移民の国アメリカの玄関とも言うところ、大きな施設ですが、考えようによっては、こんな小さな島からアメリカ全土へ人々が広がっていったというのも大変なことです。 エリス島

旧大陸から移民して来る人たちは、まずエリス島に上陸し、ここで、現在の私たちが外国へ入国すると同じような検査を受けます。
と言っても、多種多様な国から全財産を持って家族全員で来ているのですから、荷物の管理、お金、伝染病、身元引受人、言語と、その処理は大変な手間だったと思われます。
写真を見ると、皆すごい格好です。風呂敷や柳行李のような物に入れられた大量の荷物が、検査を経て、よく本人の手元に渡ったものだと感心します。勿論、沢山の不正事件もありました。展示されているお金の種類だって大変なものです。そのころから為替交換レートってあったんですね。
伝染病に対する警戒も大変なものだったようで、なかでも眼病(トラコーマ)が恐れられていたようです。駐在している医師は、僅か数秒で病気を見分け、該当者を隔離したとの事ですが、建国間もない国に、そのような大勢の移民を整理しながら受け入れるシステムがよくあったものだと、驚きました。
先に移住している人たちが迎えに来た、というケースが多いようですが、すでに外国と音信がスムーズに交わされていたこと、迎えに来る交通手段など、私は島の外のことにも興味を抱きました。毎日押し寄せる新移民を迎え入れるために、このような施設を陸から離れた孤島に集中して作ったこと、医療施設や収容施設が作られていたことなどを見るにつけ、初期のアメリカ人の危機管理能力、事務処理能力に感心もしました。

オーディオガイドは滑らかな日本語で詳しく説明されますが、建物が広いのと説明事項が多いので時間が長くなり、私はクタクタになってしまいました。エリス島のフェリー乗り場にはニュージャージーからのフェリーも来ていました。乗り場からは自由の女神の横像が見えます。当時、移住してきた人たちには、新天地のシンボルとして勇気を与える存在であったことは勿論でしょうが、きりりとした清潔な姿に、現在でも刺激を受ける人は多いのではないかと感じました。

再びフェリーに乗り、バッテリーパークへ戻り、北上すべく地下鉄に乗りました。たしかグラウンドゼロは途中だったな、と思いながら乗っていると、事故現場の駅は通り過ぎてしまいました。9.11事件以来、地下鉄の駅はまだ回復していないのですね。長い長い工事中区間、真っ暗でした。
グラウンドゼロへは、地上に出て歩いて向かいましたが、もう新しい建物の工事が始まっていて、全体が見渡せる展望台も閉鎖されていました。近くのビルの中には跡地の様子が展示されていますが、何だか寂しく感じました。何時までも悲しい思い出に浸っているのはいけないのでしょうが、あの事件は何だったのか、考える続ける拠り所が欲しいと思いました。

気を取り直して再び地下鉄に乗り、今度はブロードウェイへ。実は私の次女は今春、大学の「哲学科」を卒業して、何とダンサーになりました。ダンスに何の協力もしてやれない私、せめて本場ニューヨークのダンサーと「同じ店」で、ダンス関係の練習着でも買ってやろうという訳で、到着した日に宿のオーナーに訊いておいたのです。

その店 Capezios は、知らなければ目に付かない、ビルの二階にありました。いかにも鍛えられたダンサーらしいカッコ良い人たちに混じって、私と同じく頼まれ物なのでしょう、スタイルの悪いおばちゃんたちも買いに来ていました。余りの品数に圧倒され、今日は下見だけにしました。

外へ出ると依然として暑いこと。ベトナムかどこかなのでしょう、中華とはちょっと毛色の違う小さなお店へアイスを買いに入りました。欲しいものを告げると、店員が何やら訊いて来ますが、全く分からない。「何?」「〇×△・・・」「何?」「〇×△・・・」終わりの無い会話に上司らしい人が「もういい」と言って、アイスを手渡してくれました。何だったのでしょう、私がいけなかったのかもしれませんが、あれもニューヨーク在住なんだ・・・、と感心しました。

アイスを舐めながら歩いていくと、この暑いのに、道の一角にものすごい人の列がありました。これが有名な 「Tickets」 か。前日または当日、ブロードエイの劇場が放棄?した(売れ残り)切符を、半額で売る店です。人気の「HairSpray」などは出ないのでしょうね。でも、すごい人数。炎天下でこんなに長時間並んでは、折角のミュージカルの本番に熟睡してしまうのではないでしょうかね。
最初からここで買う気の無い私でしたが、偵察のため前の方に行ってみました。カウンター近くにはパンフレットが沢山置いてあり、その番?をしている人と、もう買う気を無くした人たちがミュージカル談義に花を咲かせています。聞いていると、オバチャン世代には「ジプシー」が好評と言っていました。ありがたく頭の中にメモして、宿へ戻りました。

今回の宿は、先に来ていた同行者が決めたコンドミニアムでした。ブロードウェイにも近く、広いリビングがあるので、会議に出席するために来た同行者には、打ち合わせなどが出来て便利でした。周りは住宅街ですが、戻ってみると、通りの入り口に警察の横棒が張ってあり、車は立ち入り禁止になっていました。
お巡りさんも立っていましたから「事故だ!」と物見高い私は興奮しましたが、これは道を一本塞いでロックコンサートをするためのものでした。

私の泊まっている宿の前の道全部をブロックして、左の端にある小さな公園に舞台にするトレーラーを置いて、コンサートは8時ごろから始まりました。私は入浴後だったので音だけ聞きましたが、道の両側の窓から何人かが姿を現し、道にも何人か人が歩いていましたが、それ以外には群集と呼べるものも無し。沢山のお巡りさんが出ていましたから、夜でも安心なのですね。

三日目:7月9日朝、小さな荷物を持ってタクシーで駅正面のペン・ホテルへ向かいました。別のホテルに泊まっている人もあり、駅構内ではちょっと不安だったので、安全そうなホテル内での待ち合わせにしました。道のほとんどは一方通行ですので、駅の方向に流れるタクシーを拾ったのですが、運転手によって経路は様々、同じ場所から出発した二台のタクシー料金は随分違いました。

足の悪い人がいるので、待ち合わせの間にエスカレーターをチェック。ペン駅はオフィスビルの地下にあるので、朝は通勤客が一杯です。
ペン駅には長距離列車の旅客用に待合室がありますが、ここは切符を見せないと入れません。列車の出発時刻30分前にはホームの表示があることになっていて、同じ頃に出る列車が沢山あるのですが、真近になっても、ホームの表示はどれも中々出ません。待ちかねて待合室から出てきた人で表示板の下は大混雑。私の連れも、後の列車の表示が先に出た、と文句を言っていますが、出ないものは出ない。〇〇行きの列車は△△番線、と大体決まっている日本の駅と違い、ペン駅は表示が出ないとまったく身動き出来ません。同じ方向へ行くらしい人と固まって待っていました。結局、出発5分前にやっとホームが表示され、大きな荷物を持った人たちが大移動です。
出発が随分遅れるのではと案じていましたが、皆待ちかねていたので、アメリカには珍しいスピードで乗車、ほとんど定刻に出発できました。

日本で切符を予約した時、アムトラックの乗車について、パソコン上にいくつかの注意事項が表示され、私はそれを厳守するよう同行者に連絡しました。ほとんど飛行機に乗る時と同じです。
大きな荷物は車内に持ち込まず、30分以上前に来て、チェックインすること。手荷物は小さいのが各二つずつ。計50kgまで。
荷物には必ず名札。
写真入りの身分証明書が必要、などです。

でも列車に乗る時に見たら、皆、ものすごい手荷物で、コントラバスが入りそうな荷物も車内に持込んでいて、チェックインなどしている人は無さそうでした。こんなにギリギリにならなければ列車が来ないのでは、恐ろしくてチェックインなど出来ませんよね。持ち込みバッグも皆大きくて、通路にいくつもはみ出していました。車内は盗難の恐れもあるので、自分の手荷物を確認する必要があり、名札は必須、持ち主不明の場合は、怪しいということになります。

切符にはそれぞれの名前が入っており、要求された時には身分証明書を提示して、正しい持ち主であることを証明しなければなりません。今回は往復とも提示を求められることはありませんでしたが、証明書を持って居ないと警察沙汰も珍しくありません。

列車はほぼ定刻の10:50に走り出しました。駅を出るとすぐ両側は高い岸壁になりましたが、ニューヨークはこの固い岩盤の上にあるので、高層ビルも安心して建てられるのだそうです。
線路の真近をハドソン河が流れています。雨が多いせいか水位が高くなっています。崖の上にはアメリカらしい優雅な木造の家々が並んでいますが、それもすぐに途切れ、後は森と湿地、沼などになります。

列車は暗くてちょっと薄汚くて、日本の列車のほうが上等と感じましたが、これは照明が暗いことが大きな原因のようです。広軌は東海道新幹線(五席)の幅の車輌に座席が四列ですから、ゆったりしています。網棚は低く大きく、窓は小さく、ほとんど開かず、汚い。座席に付いているテーブルはやたら大きい、五十年ほども前の日本の電車みたいです。
しばらくすると検札がやって来ました。日本と違って車内で切符を買ったり乗り越しは殆ど出来ず、正当な切符を持っていないと最初から泥棒扱いされて大変なことになります。
車掌は切符の行く先をチェックして、荷物棚の端に、行く先を手で書いた紙を挟んでいきます。日本の列車の席がほとんどコンピューターで管理されているのと較べ、何とアナログなこと。席を移動して紙の貼ってない場所に座っていたら怒られたので、次からは紙を持って移動しました。降りる駅を把握されているので乗り越しの危険は無さそうです。私たちの乗った車輌は一応予約席ですが、席は決まっていないで、人数分の席が確保されているだけのようです。日本と同じように、荷物で席を取ったり、真中に座ったりして同席を拒んでいる人が多く、二日後の帰りには、立っている人も見ました。

カフェ・カーも開きました。一輌の半分がテーブル席、残り半分が売店で、飲み物と甘い菓子パン、ピザ、タコスなどもありました。殆どの人は荷物が心配なのかテイクアウトしていました。

私たちは7人連れで、多民族国家の中とはいえ毛色の変わった集団と目立ったのでしょう、途中で、八王子の学校で英語を教えていたという一人の女性が、日本語で話し掛けてきました。ナイアガラに近いRochester出身で、現在はイギリスに住んでいるが、同窓会のために帰ってきたとのこと、日本語でも全く不自由の無い方でした。

列車は16:17にSyracuse(シラキュース)駅に到着する予定でしたが、列車を引っ張る機関車部分に故障が生じたとかで、途中からスピードが極端に落ちました。途中駅のAlbany-Rensselaerでは遂に、作業員が機関車の下にもぐって部品を取り替えたとかで、長い時間停車しました。
列車が停車したAlbany-Rensselaerという駅は、ボストンへ行く列車との分岐点ですが、Albanyという大都市の名前が付いている割には、野原の真中の駅でした。もう一つのRensselaerという町との間、ということでしょうが、Albanyへ行くつもりでこんな所で降りたら大変です。

シラキュース直前の駅は、アムステルダムという名前です。ニューヨークも植民初期にはニューアムステルダムと呼ばれ、オランダから移民してきた清教徒が住んでいたところですから、この辺りもその名残の人たちが住んでいるのでしょう。

私たちの目的地Syracuseでは沢山の人が降りました。列車はこの先一時間程で目的地ナイアガラとのこと、行きたいな〜。 素敵なリムジン
駅には予約しておいた車が待っていました。私たちが訪ねるフィンガーレイク地域には、公共交通機関が全く無いので、事前に三日分の車を予約しておいたのです。7人でも一台の車に乗りたいと伝えてあったので、ミニバスを想像していましたが、車はアメリカで今大流行の、長〜いリムジン、中にはバーやテレビも付いていて皆で大喜びしました。
駅からホテルまでは約一時間、私たちの目的地は湖が沢山あるところなのですが、早くも高速道路の脇に湖、沼などが見えてきました。

私たちが泊まった Holiday Inn は典型的な郊外型で、建物は、アメリカのドライブインによく見られる、低層二階建て、横に大きく拡がっています。周りには道路ばかりで他には何もありません。こんな所に誰が泊まりに来るのかと思ったのですが、ほぼ満員状態でした。周りに広がる Finger Lakes 地域は、沢山の湖とワイナリーが点在する一大レクリエーション地域なので、子供連れも沢山、車があれば距離など何でもないですね。

足の便の無い私たちは、車を帰してしまった後は外へ食事にも出られず、ホテル内のレストランへ行きました。空気の綺麗なこの地域は、日本で言えば長野県諏訪のような所なのでしょうか、昔からオルガンやピアノの生産が盛んで、レストランにも古いオルガンが置かれていました。
壁には、明日訪れる予定の場所に因んだ女性達の古い写真が飾られ、開拓時代のものと思われる古い家具なども置いてあります。若いウェイトレスは、私たちが女性の人権運動発祥の地を訪ねてここへ来たと聞いて、目を丸くしていました。
食事はおいしく、特にステーキが好評でしたが、女性ばかりの一行のこと、人数より少なめの皿を注文し、分けて食べて丁度でした。

四日目:7月10日昨日の車に乗って、まずは目的地である、アメリカの女性人権運動発祥の地 Women's Rights National Historical Park へ向かいました。

何も知らなかった頃、アメリカこそ男女同権の国、と思っていましたが、アメリカは今でも、北欧などに較べると、女性の地位に関しては保守的な国なのですね。
レディファーストなども、女性は「弱い、保護すべき存在」という概念から発したもので、強く自立した存在とは考えられていなかったわけです。
随分増えたとはいえ女性議員の数は少ないし、働く女性の間では「ガラスの天井」と呼ばれる、昇進に対する目に見えない天井が存在すると言われています。

ヒラリーさんのように夫を越えそうな力を発揮すればデシャバリと言われ、未だにアメリカの理想のファーストレディーは、ブッシュ・ママのような「よき母」、共働きが増えた今は随分変わったでしょうが、家計を握るのも夫で、専業主婦の殆どは、夫から必要経費を都度もらう生活をしているので、気持ち良くお金をもらえるように、いつも綺麗な可愛い妻でいる努力をすると言われています。
現在の日本では何の抵抗も無い女性のパンツ姿が、未だに禁止されているオフィスも多いとか、私にはクリントン政権時の、オルブライト国務長官のスカート姿が、その象徴のように見えました。

建国当時、奴隷解放に熱心だった人たちも、女性の人権については無関心だったのです。
ここフィンガーレイク地域の一角にある セネカフォールズという町は、夫や父親の隷属物に過ぎなかった女性に、男性と同等の権利を認めることを求める運動の、発祥の地として知られています。

中心となったエリザベス・キャディ・スタントンという女性は、ボストンのインテリ家庭で育ち、学校の成績が兄より優秀だったために、紫式部のように「お前が男だったら・・・」と父を嘆かせた、という人ですが、そんな家庭でも、娘を普通教育以上の学校へやるのには、随分抵抗があったようです。
男子校でも教育を受けたエリザベスは、そこから大学へ進学していく同級の男性を、とても羨ましく感じたようですが、女性を受け入れてくれる大学などは、十九世紀中葉には勿論ありませんでした。

当時の進歩的な人たちの間では、奴隷解放運動が盛んでした。エリザベスの夫ヘンリー・スタントンもその一人で、エリザベスは彼と一緒に、ロンドンで開かれた奴隷解放運動の集会に行くのですが、そこでは、女性であるということを理由に、出席を拒否されます。

ボストンでの進歩的な人たちとの触れ合いを通じて、どんどん啓蒙されていく娘を案じた父から、セネカフォールズという田舎に家を与えられ、夫からは万全な家事を要求される中で、エリザベスは知的な刺激の無い、家庭内に幽閉されたような生活に不満を感じながら、七人もいる子供の世話に明け暮れていたのですが、ある日、知人の家でのお茶の席で、その不満を打ち明けた所、皆も同感し、他の人にも働きかけようということになったのです。

アメリカ北東部の十三州は、信仰の自由を求めて移住してきた、キリスト教の様々な派の人たちが住み着き、今でも信仰厚い土地として知られていますが、これらの信仰厚い人たちは、聖書に説かれている「人間は平等」という見地から、奴隷解放にも熱心な人達で、奴隷の手で作られたものに対する不買運動などもあったようです。
が、聖書で説かれている平等は「女性」には及ばないものらしく、私たちが知っている聖書の中でも、女性について強調されるのは母性ばかりで、大抵は男性の従属物、脇役として扱われています。現世でも、女性の聖職者なども認められていませんでした。
アメリカ北東部は、古い因習的なカトリックに飽き足らないで、改革を目指して興った新教の地であるのに、女性の地位は、男性を支える、良き家庭人であることが理想とされていたのです。黒人奴隷の開放を唱える人々でさえ、女性の自立や財産権について考えることは無かったのです。
この当時の女性は男性の所有物ともいえる存在で、結婚する前は父親の庇護の下、結婚後は夫に、持参金も含め全ての財産を所有され、家庭内で子供の世話と家事に専念することが理想とされており、エリザベスの夫も熱心な奴隷解放運動家でしたが、女性の権利には関心が薄く、妻の女性の権利運動には終生、協力的とは言えなかったようです。

そんな中で、お茶会で賛同した人の中には男性もいたのですが、それはどんな人たちかと言えば、クエーカーと呼ばれるキリスト教の一派だったそうです。
アメリカ北東部に近いニューヨーク州も敬虔なキリスト教徒たちが多いらしく、今でも街中の至るところに数多くの教会が見られますが、クエーカーは中でも戒律の厳しいことで知られています。
聖書の解釈は宗派によって様々ですが、クエーカーは、聖書の中の「人間の心(魂)は平等」という神の言葉を理念とし、その観点から、女性にも男性と平等な権利が認められるべきと考えていたのでした。

賛同者を得て、エリザベスは集会を計画し、その場で発表する宣言を、アメリカ独立宣言をもじって書き上げます。「奴隷も平等・・・」とあるところを「女性も平等・・・」とした訳です。

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