早春フランス・バスクへの旅3
ソンポル・スキー場

その先は段々に雪が深くなり、ついには崖の陰に大きなツララも見られるようになりました。
真っ白な壁を縫って進むと、ソンポル・スキー場。日曜日のため沢山のスキー客が来ていて、駐車場からはみ出た車が道に列をなしていました。

更に行くと国境。「アラゴン地方」という立て看板を過ぎると今では検問所の跡があるだけです。その先にはCandanchuという名のスキー場、中国人が開発したスキー場だと運転手さんが教えてくれました。ちょっと苗場を思い出させる、沢山のホテルが列をなしている、その前面が広大なスキー場になっていて、カラカラとリフトの鳴る音が聞こえました。
そのすぐあとは川沿いに工業地帯、そしてバスの終点Canfranc(カンフラン)には10:15に着きました。
私は同じバスで引き返すのですが、ベルギー人はここから巡礼路を辿ってJaca(ハカ)というスペインの町へ行くとのことで、運転手さんから道を一生懸命訊いていました。 Canfranc駅

Canfrancは両側を山に挟まれた場所ですが、巨大なルネサンス・スタイルの立派な駅があります。さっき見た古い鉄道は、この駅とも連絡していたようですが、1970年に何か事故があったとかで、今は使われていません。放っておくのはもったいないような、それは立派な駅です。この鉄道建設を巡っては、フランス・スペインの間で様々なことがあったようですが、今は昔のお話。 水のみ場

バスの発車までちょうど一時間あるので、先ずは観光局へ。
巡礼路らしく、事務所の前には帆立貝の形をした水飲み場がありました。
町には大きなホテル、土産物屋、食べ物屋もありました。
折角スペイン領内に入ったのだから何か土産を、と思って、ふっとお金(両替)のことが頭をかすめてドキっとしました。でもどこもユーロだから両替の心配はいらないのですね、便利になったものです。

帰りは運転手さんと二人だけ。自分の兄の奥さんも日本人だ、と言って名前を書いた紙を見せてくれましたが、それは中国人の名前でした。
夏には日本人がワンサと来ると言っていましたが、中国人と本当に区別できているのかしら。
帰りはコーヒーブレイク無し、沿線の草地ではお年寄りが何グループもハイキングをしていました。のどかな場所です。

12:40、Oloron-Ste-Marieの駅でバスを降り、列車を一本遅らせて、町の見物をすることにしました。この街の有名なSte-Marie(サント・マリー=マリアさまのこと)という教会へ行くことにしました。大きな町で観光局もあるのですが、日曜のため休み、お店も殆どが休みです。ひと気の無い住宅街はかなり立派な新しい家ばかりでしたが、教会の辺りに来ると一転、中世風の街並みに変わります。 Ste-Marie教会

礼拝をしているのでは、と心配でしたが、教会の中は無人でガランとしていました。私は原則として教会内部、特に祭壇には敬意を払って写真は撮らないことにしているので、表に出てから、外側のグロテスクな彫刻の写真は沢山撮りました。     

この街にはもう一つ、Sainte-Croixという有名な教会が川向こうにあり、バスの運転手さんは「道は簡単」と言っていましたが、地図が入手出来なかった上にお上りさんの悲しさ、随分時間がかかってやっと辿り着きました。 途中の橋から
ここも彫刻が有名なのですが、残念ながら現在工事中で、外に付いていた彫刻も全部剥がされていました。教会の周りの家々は超中世風、そこから駅へ向かう道への坂道も、まるで昔に帰ったような雰囲気でした。

日曜なので町中のお店が閉まってゴーストタウンのようでしたが、やっと一軒開いている店でサンドイッチを買って、駅へ向かいました。
私はポーの駅に着いてから戻る時間の余裕があるので、荷物は宿に置いたままで出てきましたが、Oloronの駅で見ていたら、地元の人らしい家族連れが来て、「えっ、ポーの駅で連絡に1時間半もあるんだ・・・。」とため息をついているので、ずっと住んでいて今頃知ったのかとおかしくなりました。普段はきっと自動車で移動しているのでしょう。

ポーまでの30分の間、それでもこんなところで途中下車する人もありました。
先日見たよりは小さいけれど、毛がモコモコのロバ(こちらがバスク独特の種?)、元気なニワトリ、ホロホロ鳥、バスク名物のベレー帽を被ったオジサン、車窓からの景色はなかなかのものです。

ポーには14:55着。宿まで行って荷物をピックアップ。今夕の宿から電話があって、閉まっていたら強く叩いて、と伝言があったとのこと、あちらも日曜日なのですね。

戻ったポーの駅は、相変わらず混んでいる感じ、買ってもとても全部読めないので、売店で新聞の見出しだけを盗み見しましたら、「ミッテランがブッシュに宣戦布告」という勇ましい見出し、案じていましたが戦争まで、未だ少し時間がありそうです。日本では「ドビルパン」と書かれている外相、こちらでは「ビルパン」だけなのですね。

更に駅の案内板を何気なく読んでいたら、「この度、政府のお達しで、駅のロッカーが全面的に廃止になりました」というのが目に留まりました。これって列車で移動している旅行者にとっては大事件でしょう。これからは駅前旅館が絶対有利ということです。

また、ポーと私の目的地バイヨンヌの間は線路工事のため一部不通、路線を変えたり、バスの代替え運行をしています、とも書かれています。車中で何かアナウンスされても聞き難いのでどうしようと思いましたが、みんなのするように真似すればよいか、と腹をくくりました。

線路は先日立ち寄ったOrthezとDaxとこれから行くBayonne(バイヨンヌ)が三角になっているのですね。通常はPauからOrthez、Bayonneへ真っ直ぐに行くのですが、工事中の現在は一度Daxに寄ってBayonneへ行くので、30分ほど遅くなります。
Daxからの車窓は相変わらず松の木の植林がいっぱい、海が近いので沢山の水鳥も見えました。

Bayonneへは18:20着、まだまだ明るいけれど、夕方になると、さすがにちょっと寒いです。宿は駅のすぐ横、ちょっとショボイけれど荷物を持っているのでこれが一番楽です。明日の時刻を確認し、ゆっくりなので朝食も予約してから部屋に入りました。
2月24日(月)
朝食はコンチネンタルなので、パンと飲み物だけ、頼めばジュースなども出るけれど、昨日の夕食が多かった私は、パンを残して心配されてしまいました。

駅には窓口が二つしか無かったことを思いだし、早めに駅へ。
予定では明日は、バイヨンヌからSt Jean de Luz(サン・ジャン・ドゥ・リュズ)へ行って、またバイヨンヌに戻ってからTGVに乗るつもりでしたが、時刻表をチェックしたらSt Jean de Luzからバイヨンヌへ戻る列車が非常に少なく、乗る予定のTGVはSt Jean de Luzにも停まることが分かったので、乗車駅を変更しようと思ったのです。

こちらの窓口は、並んだ順が最優先で、急いでいるからと言ってもなかなか順番を譲って貰えないのですが、さすが窓口がわずか二つともなると譲ることもするのですね、見ました。
私はマトモにならんで出発駅を「手書き」で変えて貰いました。フランスは結構ハイテクの国ですが、手書きも多く、ここが四角四面でないラテンの良さです。

今日の行く先はSt Jean Pied de Port(サン・ジャン・ピエ・ドゥ・ポール)、サンチャゴ・デ・コンポステラのもう一つのピレネー越えルートのフランス側の最終地点です。

バイヨンヌのホームは3本、ホームには番号とアルファベットがふってあり、番号に従ってホームに移動し、ホームのA側、B側、という訳です。

St Jean Pied de Port行きとしてやって来たのは、たった一両の列車、中はまあまあでしたが、外観は超古く、エナメルは落ちてツヤが無く、一等と書いた字の上にバツがしてありました。
一両の片側が一等、反対側が二等と書いてありましたが、勿論全部が二等、でも驚いたことに短い一両の車輌の真ん中に新しいトイレが付いていました。

乗客は15人くらいでしょうか、全員観光客という感じでした。 バスク風の家
列車は最初は家々の軒をかすめるように走り出しましたが、すぐに緑の牧場が点在する山の中に入りました。バスク地方は家が大きいと聞いてきましたが、一軒一軒が大きいだけでなく、学校らしきものは木造でも4、5階建て。かなり大きな集落がいくつも点在していました。

車窓からは車に追われて歩く羊の群、毛足の長い羊たち、もぐらに掘り起こされた土、美しい谷川、川鵜などが見え、行く手にはピレネーが白く迫ってきます。
雪を戴く高山と裾野に広がる牧草地・・・、スイスや、ドイツのノイスバンシュタイン城近くを思わせる形容ですが、一つだけ違うのが、ゴミ。川には廃車から紙、ビニールまで、沢山のゴミが放ったままになっているのです。これさえ片付ければ、あちらに何の遜色も無いのに・・・、糞といい、このだらしないところも、ラテンの特徴なのでしょう。

8:45にSt Jean Pied de Port駅着。旧市街は駅から少し歩いたところにあります。 バスク語の看板 バスク語の看板
駅の周りの家々は本当に大きい、ほとんどが4、5階建てなだけでなく、フロアごとの天井が高いのでしょう。まさに豪壮な家々です。昔は牧草や穀物、家畜までも家の中に収容していたとのことですが、その名残でしょうか、屋根が大きいのでなおさら大きく感じられます。

バスク地方では「バスク語」という、どこ起源とも知れない言語が話されているとのことですが、途中で見つけた看板にはフランス語と両方が書いてありました。 市(いち)
アジ看板(古い表現!)も至る所にありましたが、フランス語にもスペイン語にも非常に少ない「K」の文字が多いこと、「X」も多く、また母音が多くローマ字のような印象を受けました。
でもフランス語やスペイン語に似た言葉も多く、それは長い間に影響を受けたということなのでしょう。海で隔てられている訳ではないのですから、混ざるのも仕方ないでしょう。 サンジャック門

旧市街は城壁に囲まれているのですが、その外側には市(いち)が立っていました。毎週火曜日と言っていましたからタイミングが良かったのでしょう。





フランス語とバスク語で書かれたユネスコ世界遺産の看板

それは後にして、まず門の中に入ってみました。大通りに出て、ずっと左に行った所が、巡礼路の入り口「サンジャック門」です。
因みに「サンチャゴ」はスペイン語で、フランス語では「サンジャック」、日本では「聖ヤコブ」という名になります。 バスケットボールのコート
周りには巡礼のための宿、救護所などがちらほら見られます。今でも機能しているのでしょう。




門の真上は要塞ですが、現在は学校になっているとのこと、石垣の間の広場がバスケットボールのコートになっていました。
ここはスペイン国境の要衝ですから、この要塞からは周りが一面に見渡せ、絶景でした。

さっき来た道を逆に行くと、休息の後に巡礼がサンチャゴ・デ・コンポステラへ向けて出発したスペイン門があります。ここを出るともうピレネーの険しい山だけになるのですね。

スペイン国境

両門のちょうど中間に川が流れていて、その橋のたもとに聖母教会があります。
教会に沿った道を行くとハイキングコースに出るらしく、そんな格好の人達が行き来していました。
この町の周辺は、巡礼路だけでなく自然探索のハイキングも盛んらしく、沢山の路線が示してありました。
近所の牧場では馬を使った3〜7日の小旅行も行われています。バスク地方色とサンチャゴ・デ・コンポステラ関連の教会を巡る、車での周遊コースも各種案内がされていました。 スペイン門、写真の右方向へ進むハイキングは右へ

教会の周りが商店街で、バスク名物としては、布製品(刺繍をしたナプキンやハンドタオル、シーツ、エプロンなど)、フォアグラ、ニンニク、唐辛子などが売られていました。
そういえばバスク出身のアンリ4世は、生まれたときに土地の習慣として唇にニンニクの液を塗られたとか、ニンニク臭が強くて、最初に結婚した奥方から嫌われていたとか、ニンニクに関する逸話がいくつか伝えられています。

聖母教会 町並み
赤い丸まった卍のような印がバスクのシンボルマークのようです。

市場に戻ってバスク菓子とフォアグラを購入。そろそろ現金が心細くなって来ました。
空港のキャッシュ機でトラブルがあってから恐ろしくて避けてきましたが、このままでは食事も出来なくなりそうなので、勇気を出して機械に挑戦。今度は新しい番号で無事現金を入手でき、一安心。

来る途中に郵便局があったのを思いだし、ここ独特の切手でも無いかしらと向かいましたが、気が付かない内に12時を過ぎていたのですね、例の如く閉まってしまいました。
よく見ると町中の店もパン屋までゾロゾロ閉店準備、市場までが片付け始めていました。さっき買ったバスク菓子と飲み物で軽く昼食を済ませ、早めに駅へ行きました。
13:32の次はいつでしょう、ここは一日4本くらいしか電車がありませんでした。 Poster

駅でよく見ると、駅名としてSt Jean Pied de Portの他にもDONIBANE GARAZIと小さく書いてあり、どうもそれがバスク語での駅名のようでした。
駅には何枚ものポスターが貼ってありましたが、それもバスク語で書かれていました。

また一輌しかない電車が来て乗り込むと、さっき窓口で何やら揉めていた女性と同席になりました。
アメリカ生まれでフランス育ちという彼女が英語で話しかけてくるので、絶対フランス語、という固い決意も揺らいで、色々話をしてしまいました。
この辺りを旅行するには案外バスが便利、日本で言う回数券のようなものがある、お薦めの町はAngletなど、教えてくれました。
旅行者らしい話題、そしてキップのことであんなに揉めていたので遠くからの旅行者だと思ったら、「ここから20kmくらいの小さな村に住んでいるの」、と言うなり、途中の駅で降りてしまいました。
名刺をくれたのであとで地図を見たら、St Jean Pied de Portからの方が余程家に近く、不思議な人でした。

14:32バイヨンヌ着。フォアグラが重いので一度宿へ戻り、改めてバイヨンヌの町を観光に出発しました。駅前旅館は便利ですねぇ。

駅の先、大きな橋を渡ると町の中心地へ出ます。
橋を渡った所には激しい表情の坊さんの像、Cardinal(枢機卿)と書かれていましたから高僧なのでしょうが、あの表情の険しさは尋常ではありません。誰なんでしょうね。
ここフランスの南西端は、昔からカトリックとプロテスタントが激しく争った場所ですから、何か関係あるのかも知れません。
市庁舎はオペラハウスと同居、同じく中にあると思った観光局は大分離れた場所に移動していました。

私は来る前から、そして来てからも、バスクという地方の呼び名について分からないことだらけでした。
バスクはフランスとスペインに跨った地域、ですが、アンリ4世は「ナバラ王」なのに生まれた場所、彼の両親が治めていた場所は「ベアルン」と呼ばれ・・・。どれが正式の名前で、どの地域がどういう名前なのか観光局で質問したいと思いましたが、そんなこと訊く人はあまりいないのでしょうか。詳しいことは言えないと言って、もっと大きいベアルン地方観光局へ行くよう言われました。
資料としては「バスク語について」というパンフレットをくれました。教会に行った後、迷いましたがもう疲れてしまったのでベアルン地方観光局はパス。 Ste-Marie大聖堂

BayonneのSte-Marie大聖堂は、13世紀から16世紀の半ばまでかかって建てられたゴシック様式。
アキテーヌの一部でもあるこの地域は、一時イギリス領だったこともあり、それを表す、イギリス領だった時のシンボルである豹(ひょう)の後ろに、フランスの象徴である百合が従っている装飾があります。
内庭は無料ですが、周りが工事中で、中が見えるのになかなか入れないで、みんな迷っていました。

バイヨンヌの特産品としてはバイヨンヌハムが知られていますが、ここはフランスにチョコレートが入ってきた最初の町ということで、チョコレートも名物です。

来る前に読んだ本ではチョコは新大陸アステカからスペインにもたらされ、そこから入って来たと書いてあり、なるほどスペイン国境の町だものと納得していましたが、バイヨンヌでもらった小冊子には、宗教異端裁判に追われてポルトガルから逃れてきたユダヤ人がバイヨンヌに上陸した時、彼らの荷物の中にチョコの作り方を書いた貴重な資料が入っていたと書かれていました。
いずれにせよチョコが大変気に入ったここの人達は、製法を工夫、洗練し、その伝統を守っているとのことで、町はギルド(同業組合)もあります。

チョコレートが最初に入ってきたとき、それはココアとしてだったようですが、町にあるいくつかの有名なチョコレート店の中で一番有名な店はCazenave(カゼナーブ)と言います。
硬いチョコレートは何処の店でも大差は無いけれど、ココアはカゼナーブに限ると聞いてきたのですが、月曜日は定休、ちょっとがっかりしました。
仕方なく、硬いチョコレートを買うべく周りに沢山ある他のお店に行きました。何と唐辛子入りのチョコもあるのですね。
ラップに延ばして丸めたもので、買おうかと思いましたが、全く「箱」の用意が無いと聞いてびっくりしました。
私は普段の旅行には大きめの空のタッパーを必ず持っているのですが、荷物が小さい今回は省略したのが失敗でした。大きく延ばしたのはいずれにせよ持ち帰り不可能なので、キャラメルの二倍ほどの大きさのチョコの詰め合わせを買いましたが、これも箱が無いので、家に帰って見たら随分潰れていました。

バイヨンヌはこの地方の中心地ですから、駅からは私が今日行ったSt Jean Pied de Portや先日行ったDax,スペイン領も含んだバスク地方周遊のバス・ツアーが沢山出ていました。

バイヨンヌの町でもう一つ特筆すべきは物価の高さ(ちょっとオーバーですが)です。大した土産は買わなかった私があちこちで買ったのが絵葉書ですが、バイヨンヌでは一枚0.95ユーロでした。St Jean Pied de Portでは0.35ユーロ、他の場所は大抵0.40ユーロでした。


2月25日(火)
いよいよ最後の日。ゆっくり出発なので今朝も朝食を注文しました。
昔バイヨンヌに住んでいたという同宿の男性が話しかけてきたので、今日はSt Jean de Luzへ行くと話しましたら、あそこは雨が多いから傘を持っていくようにと言われました。どうせ荷物全部を持っていくのですが、ご忠告有り難く、傘を外に出しておきました。
外は前日より風が強く、雲も下がって、なるほど雨でも降りそうな天気です。でも何もSt Jean de Luzだけ雨が多いのでは無いでしょう、なんて思いながら駅へ向かいました。

バイヨンヌ駅の時刻表はポーのように紙ということはありませんが、ホールに掲げられた大きな表示板に、存在する全ての列車を表記し、今日運行する列車の頭に小さな電気が点く、というもので、今日一日合計でも40本くらいでしょうか。
このバイヨンヌも、私が向かうSt Jean de Luzも、パリ〜ボルドー〜スペイン国境の幹線上にありTGVも停まるのですが、普通列車は極端に少なく、バイヨンヌ発8:40の次は10:26です。
列車は何と汚い外観!。内部はマアマアの二両編成。

列車が走り出すと左側に運河が見えてきました。
遠景にピレネーの見える川べりを人が散歩していて、とても優雅な感じ。次の停車駅は観光地として有名なビアリッツ、シーズンオフなので、乗降客は多くはありませんでした。
昨日バイヨンヌ観光局でふと手にしたビラには、3月にビアリッツの教会で日本人ピアニスト谷村由美子さんのコンサートがあると書いてありました。有名な観光地とはいえ、日本ではあまり知られていない、こんな場所でも日本人が活躍しているのだなあと、感心しました。

次の停車駅がSt Jean de Luz、案じていた通り、コインロッカーも手荷物預かり所もありません。コインロッカーなどは取り外した跡がまだ生々しく残っています。こんな所にも戦争の影響、平和に楽しく旅をしたいものです。

仕方なくコロコロバッグを引きずって駅の外へ。ガイドブックには「駅の外に出ると潮の香が」と書いてあったのですが、ここSt Jean de Luzを始めとするビスケー湾は、つい先日石油タンカーが座礁して海岸一帯が重油まみれになったそうで、潮の香はせず、また既に重油もほとんど取り除かれたのか、油の臭いもしませんでした。
座礁した船はPrestige(名声・信望・威信などという意味)という名前だそうで、皮肉なものですね。

駅の前は大した交通量でもないのですが、車は凄いスピードで通過するため、地下道を「使って渡らなければならない」ので、エレベーターを使って降りましたが、これがオシッコの臭いで鼻を突くよう。潮の香どころか、こんな臭いを嗅がされるとは・・・、昇りエレベーターは壊れていました。
海の方へ行こうと思ったら、何やら空バスケットを抱えたオジサンが歩いているのが見えましたので、近くに市場があるのでは、とついて行きました。 市場
本当にバスク地方のどの町でも、道に犬糞の多いこと、どうにかしてよ!と叫びたくなるほどです。自分だけでなく結構重くなったコロコロバッグの軌道にも注意しなければならないのですから。

バイヨンヌの観光局で貰ったガイドブックには、糞の始末をしない飼い主は90ユーロの罰金、再犯(!)は180ユーロと書いてありましたが、そんな警告は何の効果も発揮していないです。

市場はフランスの各地で見かける同じ形の建物と、その周辺に広がっていました。売っている物は昨日のSan Jean Pied de Portと同じようですが、新鮮な野菜や果物が目立ちました。
海産物もありましたが、普段はもっと多いのでしょう。市場の周りには店舗を構えた食料品のお店も沢山ありました。

港の方へ行ってみると、漁港らしい活気は全く無く、クレーンだけが、海中から重油で真っ黒になった縄を引き揚げていました。もう作業は随分進んだのでしょう、水面の油は薄く、臭いがひどいとは思えませんでした。 作業中? 作業中

今度は海岸へ行ってみました。海に面してバスク風の大きな家が沢山並び、その前を堤が海を囲むように走っています。
「黄金の砂」と評される美しい浜辺と聞いていたのですが、流れ着いた重油から有毒物質が出ているかも知れないということで、砂浜は立入禁止になっていました。機中のニュースで見たと同じ、白い服を着た男性が数人、バケツを片手に砂の中から黒く見える物を拾い上げていました。

海は穏やかで、夏にはさぞ賑わうことと想像されますが、立入禁止は何時までなのでしょう。
堤沿いの家は民宿なのでしょう、二階部分から堤に橋が架かっており、そのまま海に出られるようになっています。ここの家々も、驚くほどの大きさです。


民宿王女の館

町中に戻って、まず王女の館へ。
この街は太陽王ルイ14世がスペインの王女と結婚式を挙げた町として知られています。
あの大王の結婚式の場所としてはちょっと意外な小さな漁師町ですが、何と言ってもほとんど両国の国境上ですからね。
その時に王女が滞在した館は、ピンクの煉瓦が貼られた優雅な建物です。

この結婚はピレネー条約によるフランス・スペイン和平を促進するための政略結婚で、ルイ14世に付いてきた母后もスペイン出身の政略結婚ですが、お嫁に来てからずっと両国は戦争をしていたわけです。ルイ14世の両親ルイ13世達は、フランス・スペイン両国の王子・王女同志が結婚しましたので、ルイ14世夫妻は父方からも母方からも従兄弟同志、という濃い親戚でした。 王の館

王が滞在したのは市庁舎の隣の建物。こちらにも行ってみました。市庁舎の前にはルイ14世の小さな銅像があります。 教会

結婚式が行われたのは王の館から200メートルくらい離れたSt Jean Baptiste(サン・ジャン・バチスト=洗礼者ヨハネのこと)教会ですが、外見は質素の一言に尽きる無装飾の教会の、内部は大変優雅なものです。

漁港の教会らしく、天井からはシャンデリアと共に船の模型が下がっています。祭壇の背後はスペイン風に全面が金の彫刻で埋め尽くされています。
ステンドグラスは一つだけが丸く祭壇の真上の天井につけられていて、まるで王冠のようです。
祭壇の真向かいと左右の壁には観覧席が三、四階付けられ、その細い木の観覧席に結婚式の時には人が満員になったでしょうに、よく崩落しなかったものだと思うような華奢な席です。
ここの教会は現在でもバスクで最大、最高の教会とのことですが、その故に結婚式場に選ばれたのか、王のために改装されたのか、大変優雅な雰囲気に圧倒されました。お金を入れると照明が点きます。 教会内部
教会の来歴など、もっと詳しいことが知りたいものです。

教会の前は町一番のショッピング街、ここでも建物の大きさに圧倒されます。
ひとつ路地を入ると大半がレストランですが、その名前はほとんどがバスク語で、興味を惹かれました。 教会内部

教会の真ん前に、可愛い文房具屋さんがあり、そのショウウインドウにはキティちゃんグッズが沢山あって、こんなフランスの一番端にまで進出していることに驚きました。
私は文房具屋の店先を覗くのが大好きなのですが、ここは動物や昆虫の形をした様々な事務用品、デザインの面白い時計、スタンドとシェードにお揃いのプリントが施してある電気スタンドなど、欲しいものが一杯でした。

ルイ14世の結婚式には町の人達が沢山のお祝いを献上したのですが、中で特に王の母后に気に入られたことで有名な「マカロン(アーモンドと砂糖、卵白だけで作った菓子)」が、この街で一番のお土産品です。
オリジナルの製法を今も守り続けている「Adam」という店を探していたら、「何を探しているの?」とお巡りさんから声を掛けられました。事前にこのお菓子のことを書いた本に「アダム」とカナが振ってあったので「アダム」と答えると、それは「アダン」のことだね、と場所を教えてくれました。

王の館の目の前にあるそのお店の中には、マカロンの他にチョコやバスク菓子などもありましたが、バスク風俗を描いた箱に入ったマカロンは一箱20.95ユーロ。私がいつもドゴール空港で買うノルマンディーのビスケットは同じサイズの箱に入って6.50ユーロからありますから、余りの高さに驚いて二箱だけと、試食用にバラ売りを一つ、それとチョコを魚の形にしたものを少し買いました。
この立派なお店の前にも、立派な犬糞が複数落ちていました。 魚 魚

魚の形のチョコは普段から売っているのでしょうが、家に帰ってよく見たら「魚の回帰」と書いたタッグが付いていました。重油で汚れた海の再生を願ってのことでしょうか。

バスク地方ではマカロンの他に、イスラムの影響もあるといわれる、色とりどりのマジパンで作ったトゥーロンも有名なのですが、この店には無かったので、別の店へ行ってこれも買いました。

文具店文具店マカロンを口に入れながら再び街の中を散策していたのですが、マカロンのおいしさに仰天、高くてももう少し買い足そうとAdamへ行きましたが、残念、お得意の「昼休み」が、ここでは12:30から始まるのですね。
他の店もガラガラと頑丈な網戸が下りて店じまいが始まりました。教会も閉まりました。行くところはレストランしかありません。
マカロンはとても甘いので、二つ目になると少々食傷、ということは帰国後悟りました。

帰りの列車には大分間があるので、Adamの前にあるレストランに入り昼食を摂ることにしました。

豪壮な建物この街は非常にバスク色の濃い町、と聞いていましたが、このレストランにはベレー帽を被ったオジサンたちが沢山たむろしていて、飛び交う言葉もフランス語とはちょっと違い、また人々の雰囲気自体がフランスとは随分違い、なるほど文化の違いを実感しました。

再び犬糞に注意を払いながら、オシッコ臭いエレベーターは今回は避けて階段を利用して、少々早めに駅に着くと、信じられないことに駅の売店も昼休みだったらしく、2時過ぎるとそろそろと金網のシャッターが上がっていきました。本数の少ない列車、間隔もあいているのですから、ほとんどが休み時間でしょうに。

列車は定刻14:22発。TGVは田舎へ行くと三、四輌編成なんてのもあって、これはとても時速300km出ないだろうと思いますが、パリ行きはさすがに充分長い列車が来ました。

長距離なのでみんな荷物が重く、低いホームから高い車輌へ持ち上げるのはやはり難事業のようです。 バスク名物の唐辛子
車窓からはcellure de pins(松の細胞、胞というような意味=製材所のようでしたが)という看板の工場に材木が沢山積んであるのが見え、植林された松はこんな所に使われるのかしらなんて考えました。

ボルドーを過ぎるとまた一面の葡萄畑。ブドウの種類が違うのか、出来るワインによって違うのか、まだ成育していないブドウの、植え方や剪定の仕方が畑によって随分違うものだと感じました。途中には広大な湿原も見られました。

3時間ぐらいたった頃、若い女性が客席に小さなカードとペンを配りに来ました。
私にはちょっと躊躇して、それでも置いていきましたので隣の女性に聞いてみましたら、「よく分からないけれど後でお金を取りに来る」とのことで、慌てて返却、周りの人も全員返していました。

車内でこんなことして良いのかしら?でもパリでは地下鉄の中などで、音楽演奏して稼いでいる人もいますね。私は一度カバンを盗られましたが、それも車内での商売?

パリ手前の最終停車駅Futuroscopeを過ぎると、今度は夕食の車内販売がやって来ました。メニューはフランスパンに何かを挟んだサンドイッチだけで、挟んである中身を選ぶだけです。パンも中身もとてもおいしいけれど、毎日ではねぇ。一生食べ続けて、よく飽きないものです。
フランスの駅や車内で「駅弁」を売ったら、日本のような繊細なサンドイッチや、唐揚げ、洋風幕の内などを売ったらさぞ喜ばれるだろうと、若い時の私は、パリで駅弁屋をしようと本気で考えたことがあるのですが、誰もやらないところをみると、あまり脈のない商売なのでしょうか。
どんなに急いでいても、かなり安いレストランでも、一皿づつ出しては片付けてから次の皿を出す習慣の浸透しているフランスでは、デザートまでが一度に視界に入るせっかちな幕の内はダメと、誰かに聞いたことがありますが。

定刻19:50にパリ・モンパルナス駅着。ドゴール空港へ直接着くTGVは日曜日だけということで、ここからはエアフランスが出している空港シャトル利用になります。
時刻表に出ていた通りを目指して、バスはすぐに見つかりました。乗客は二人だけ、オステルリッツ駅にも寄りましたが、乗客は結局合計で十人くらいでした。
中にはやはりパリが初めての人だってあるのでしょう、運転席の後ろに貼ってある運行表を見ながら不安げにしている人もいました。
パリの町はまだラッシュを脱し切れていない時刻らしく、何ヶ所かで渋滞もありましたが、21:00にはドゴール空港に到着しました。

チェックイン締め切りは22:25分とのこと、荷物が多い人が沢山で列はなかなか進みません。 店先

待合室で隣を見るとアラブっぽい濃い顔の青年が三人いて、時節柄ドキッとしました。
9.11事件でハイジャックしたのは同じ年頃の青年、命も惜しくないという彼らは搭乗前どんな表情をしていたのでしょう。隣の青年たちの落ち着かない挙動に私は不安に駆られてしまいましたが、考えてみれば初めての海外旅行ならば出発前に落ち着かないのは当たり前、顔や民族で十把一絡げにして疑ったりしてはいけませんよね。
そういう態度がどれほど罪のないアラブ系人を苦しめ、それが反発をも招いていることか、反省、反省。

私の隣は空席でしたが、機中はほとんど満席。冬の、戦争が始まりそうな時期にも、こんなに旅行している人がいる、旅行業者として教えられる思いでした。
女性の一人旅が随分多いこと、フランス人乗客の多くは、成田で乗り継いでニューカレドニアへのバカンスとのことでした。

2月26日(水)パリ出発が少し遅れ、成田到着も同じぐらい遅れました。家の方へ直通のバスは20:40なのでちょっと慌てましたが、手荷物一つなのでスピードで外に出られました。

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