ベルギー・オランダ花見の旅 14 〜 26 April,1999


写真を指すと説明が出ます。
私の知っているヨーロッパの一番美しい季節、それはやはり花盛りの春でしょう。以前、航空料金に季節が影響するなんて全く知らなかった頃、春の連休にフランスへ行って、その美しさに感動しました。

美しいヨーロッパの国々の中でも、花はオランダのチューリップ。いつかは行ってみたいと思っていました。

でも、最盛期には「地上は花盛り、その上は黒髪の花盛り」と言われるほど日本人で一杯のキューケンホ フに、同じように行くのはゴ・メ・ン、と思っていました。

チューリップが咲き乱れる球根畑に行きたいと思っていました。


青春時代は、犬養美智子さんが書かれたヨーロッパ関係の本が愛読書でした。

その中に、「船の中で食事、睡眠をしながら運河を航行した」というくだりがあって、その時には旅行 業者になるつもりなんて全く無かったのですが、いつか「自分が」行ってみたいと、強く印象に残っていました。

運河網の発達したヨーロッパ大陸では、イギリスに面した北海から地中海まで一度も陸に上がらずに縦断が出来る・・・なんてご存じでしたか? 私は5、6年前 座間図書館にあった「ヨーロッパ運河の旅」という本でこのことを知り、更にベルギーのブルージュへ行った時、僅か30分程のクルーズで大喜びしていた私達に現地人のガイドさんが、「オランダの方へ抜けるクルーズはもっとステキ」とうっとりしながら言ったことを思い出しました。

ベルギーの古都ブルージュのはずれから、すぐ近くのダムという小さな町までは、約30分ですがクルーズ船が運行されているのです。
   
ブルージュ郊外の運河 鏡のように静かな運河の水面を音もなく滑って行く船からは、沿岸のおとぎの国のような風景が楽しめます。午前中だったせいか薄もやにつつまれた牧場は、地平線のかなたまで見渡せそうな広さ、その中で点々と草をはむ馬、牛、羊。絵のようなその背景に彩られて運河沿いに並ぶ素敵な家々。終点のダムがまた、ブルージュとは違った静かでひなびた、雰囲気のある中世風の町で、英語もほとんど通じないところがいかにも外国へ来たと実感させられて、感激したものでした。ステキ、ステキと騒ぐ私達に、でも現地のガイドさんが言ったのです、「ブルージュからオランダへ抜ける北海沿いの運河の美しさは、こんなものじゃないですよ」と。思い出してもうっとりというその時のガイドさんの顔・・・、いつか必ずそんな旅を実施したいと思ったものでした。
やっと機会が巡って来て、春にオランダはどうだろうということになった時、この 両方が何故か突然、同時に思い出されました。

約半年をかけて、希望通りの船を探し、畑の中を船で航行出来ることを確認し、費用も調整して、私に 取っては長年の夢をお客様と共に最高の形で実現することが出来ました。

4月14日(水):いつものヨーロッパ行きと違って今回は成田を21:55発というエアフランスの深夜便で出発。出かける時はゆっくりで良いけれど・・・

夜10時に離陸、昼間から離陸までの慌ただしさから解放された安心感か、眠気がドッと襲って来たが、昼間出発の便と同じように離陸後しばらくして夕食が出るのには参った、もう12時過ぎているのに。


4月15日(木):お絞りタオルに起こされて前面のテレビを見ると、もうパリは間近。
いつもパリへ来る時は、ドゴール空港の滑走路近辺を走り回る野兎を見るのが楽しみだが、今回は何と朝の4時過ぎで外は真っ暗、何も見えそうもない。

パリ4:30到着。よく眠ったけれど、何となくボンヤリ。ヨーロッパの四月、夜は遅くまで明るいけれど朝は案外暗い。外は雨で気温は2度、ベルギーはどうなのかと気になる。
乗り継ぎ便を待つ間に洗面。早朝だけれどもう買い物をした人もあり、びっくり。
建物のドアが開くと なるほど外は2度の寒さ、雨風が身に沁みる。飛行機は思いがけない小型、ブリュッセルまでは近いとは言っても こんな小さいのは初めてでびっくり、機内では飲み物とペーストリーが出た。

ブリュッセル上空からは地上がよく見え、晴れらしいと一安心。空港到着は旧ビルの方で、出口までは延々と歩くことに。

外へ出る、が居るはずの迎えが来ていない。大勢の出迎えの人の注目を浴びつつ、全員不安な気持ちで立ち往生、そうこうする内にバス・ドライバーは現れるが、彼が探してもガイドは居ない。何度も電話している内にやっとガイドの登場、「ポーターを探していたんです・・・。」とのことだが、私の第一印象は最悪。

兎に角バスに乗り走り出したが「まずワーテルローへ」と言うので再びカチン。あんなに何回も場所まで問い合わせて来たハレルボスの森は?、「あ、そうでしたね」で、今走っている所がハレルボスの森だが、花は森のまるで反対側にあるらしい。

空港のすぐ近く、私が探しておいた、森中が小花で一面紫のカーペットのようになる、English Bell Flowerの群生地へ。
これはブリュッセルに住んでいる日本人なら誰でも知っているとかで、ガイドの指示でようやくその方向へ。頭がカッカして目を向ける余裕も無かった外の景色をようやく見やると、快晴とは言い難いけれど沿道には日本でも見られないくらい沢山の八重桜が満開、その下には水仙やチューリップが、この先二週間の花巡りの幕開けを告げるように咲き誇っている。
野生のヒヤシンス?の咲く森をドライバーは知らなかった様子だが、ガイドの指示で、とてもバスは通れないような道を通って、時には両側や上からの枝に車体を叩かれながら、時には対向車に出会って何メートルもバックしながら、ようやく着いた所は何〜も無い畑の外れ。でも車窓から既に見えました、眼前に広がる林の下草は、横に延々と続く薄紫の花の帯。皆の歓声が上がる。花はヒヤシンスとはとても呼べない形で現地ではベルフラワーとか言うらしいが、青紫の花が七分咲きというところか、足元一帯を覆っている。私達以外には全く人気のない森の外れで、歩き回ったり写真を撮ったり、ひとしきり大騒ぎをする。
空港からこんなに近い所に、こんなに綺麗な場所が・・・。日本では調べるのも難しかったのに。
皆の歓声に、旅の前途も明るく。


←近くに寄ると

続いてナポレオン最後の戦場ワーテルローへ。
ワーテルローへ着く頃には小雨。昨日は季節外れの雪が降ったとかで 家々の屋根や畑は残雪のために真っ白になっている所もあるが、今日は雪の残るような寒さではないのに不思議、湿度とか、日本とは違う要因があるのかもしれない。

昔は大戦場になったくらい障害物の少ない平原が広がるワーテルロー、ライオンの丘と呼ばれる高台に登って辺りを見渡すと、今は平和そのものの牧場と畑が眼下に広がる。美しい景観が昔のままに保たれていてビックリ。

ここに数十万の兵が集まり、ナポレオン支配に幕を下ろすことになった戦いは、古典的な人海戦術で行われた最後の戦争とも言われており、オランダ・ベルギーの新しい時代の幕を開けるものともなった。
1995年には決戦180年を記念して戦いの様子が再現され、世界中から戦史愛好家など数千人が当時の服装、装備そのままに集まり、約二十万人の観客も集まったという写真を週刊誌で見たのを思い出す。

頂上の展望台のさらに上、私達の頭上に置かれたライオン像は、この闘いの折りに負けたナポレオン軍が放置した武器を溶かして作られたとか、ここで負傷したオレンジ公とオランダ建国の父オレンジ公ウィリアムは同じ名前だけれど関係は、と聞いたけれど、ガイドからは返事無し、ベルギーのガイドはオランダのことは言わないのかしら。

私は趣味でヨーロッパの歴史を勉強しているけれど、いつも不便だなと思うのが人名。漢字の国日本では、文字を、組み合わせて名前をいくらでも創造出来るので、同じ名前の歴史上の人物は皆無と言って良いけれど、ヨーロッパでは名前の一部を変えるという習慣が無いせいか、名前の種類が少なく、色々な時代の色々な場所に、同じ名前が沢山出て全く紛らわしい。

ベルギーでは2000年に生誕500年が盛大に祝われたカール大帝と全く同じ名前の王様が8世紀後半にもいて、しかも同じく「大帝」と呼ばれる重要人物。この名は英語ではチャールズと呼ばれ、この他にもカルロス、シャルマーニュなど様々に呼ばれ、大体は発音で出身国を区別しているらしいが、8世紀のカールはまだ国境が定まっていないヨーロッパ中を駆け回ったので、あちこちで様々に呼ばれ、16世紀のカールはハプスブルグやスペインの王様も兼ねて、こちらもヨーロッパ中に足跡を残しているので本当に紛らわしい。
オランダのウィリアム公も、オランダではウィレムと呼ばれているらしいし、出身のオレンジ家(フランス・プロバンスのオランジュの出)もオラニエと呼ぶらしいが、オランダ旅行中には、銅像を見れば皆がウィレムだろうと当てずっぽうを言うくらい、ウィレムという名前の王様、領主が多い上に、17世紀のオラニエ公ウィレムは、オランダ総督でいてイギリスではウィリアム3世と呼ばれるイギリスの正当な王であり、イギリスにはこの他にもウィリアム王は何人もいる。
同じ名前の王には〇世、と番号を付けて区別しているわけだが、中には王位に就かなかった同名の有力者もあり、これらも含め、あだ名も多用されている。美男王とか善公なんて渾名は本人も悪い気はしないだろうが、失地王、禿頭王なんて、生きているうちはとても失礼な渾名もあり、でもきっとそれは本当にその人の本性を表しているのだろうと思うと、おかしい。

結局オランダ建国の父とワーテルローのウィリアムは、時代もまるで離れた全然無関係な人と後で分かったが、あやふやな知識も現地で再確認できたらさぞ印象深く、その国への興味も増すだろうと思うと、ガイドには単なる観光案内以外に、私たちがなかなか深く知り得ない、現地の歴史の最低限の知識は持って欲しいものだ、というのは欲張りだろうか。

この後はナポレオンが宿舎にした所、連合軍司令官ウェリントン英将軍の宿営地、病院として使われて今もそのままの姿を残している農家などを見てから市内へ。こういうだだっ広い観光地へ来るといつも思うけれど、目印の少ない所の観光には、やはりガイドが不可欠、たとえ説明が不充分でも。

レストランで昼食。有名なレストランらしく、日本にも支店があるような気がする。ベルギーで初めてする食事、美味しかったので皆一生懸命食べてしまったが量が多かったから夕食が心配。

午後は進路を東にとって、ベルギー南西部の古都ナミュールへ。ムーズ川の真珠と呼ばれる美しい町。

以前我が家のダイニングに掛けてあったカレンダーの写真がナミュールの全景で、楽しみにしていたが、ガイドはよく分からなかったのではないか、高台から見た町の全体像はいまいち、帰ってから地図を見たが、案内された場所より、少しずれていたのではないかと思う。
町中 下へ戻って川を越え、ナミュールの町中へ。ここも建物の古さ、道の細さ、汚れ具合など、中世の雰囲気を残した町だが、通り過ぎる自動車のスピードが凄く、それだけは現代。
昔も犬の糞がこんなにあったのかしら、足元ばかり気になってゆっくり辺りも見られない、なんてこぼしながら教会を見た戻りには、ミューズ川沿いの遊歩道のような所を通る。昔は遊歩道が無く、川から直接物資を引き揚げたとのことで、川沿いの建物の壁には、えぐられたり、歩道で埋められて上に半分しか出ていない入り口や船着場の跡などがある。 ベニスなどでもよく見られる建て方だが、川幅が広いのでとてもゆったりした感じ、青い空が大きくて素晴らしい。自然の景観とそれにマッチした建物も美しいこの川にも、きっとクルーズ船が通っているに違いない、次回は必ず探そう、なんて考えながら歩く。
橋のたもとに、昔は肉屋のギルドだったという立派な建物があり、現在は考古学博物館になっている。
川沿いの道
昔は肉屋だったという博物館の建物 この近辺は紀元前数万年というころから人類が住んでいて、古代ローマ時代にはシーザ−もやって来てゲルマン民族と戦ったという。また、現在のヨーロッパ諸国の元祖フランク王国の最初の、メロビング王朝の中心でもあったということで、石器時代や鉄器、青銅時代からメロビング、次のカロリング王朝にかけての遺品が、博物館には沢山所蔵されている。

私たち一行のメンバーの中にはガラス工芸をしている人もあり、展示していある二千年近く前のガラズ技術の繊細さに感嘆、透明度ではちょっと落ちるけれど、製品の薄さ、色彩などは現代と遜色なし。
鉄製品の中には安全ピンやブローチのような「針」類がたくさんあったが、針の部分も驚きの細さの上に、ブローチ部分のデザインの素晴らしいこと。

私自身は今またイタリアの歴史を再勉強中で、先日やっとたどり着いたメロビング王朝の遺品がこの辺りには沢山あるとのことで、この博物館は楽しみにして来た。この博物館だけでなく、ナミュールにはメロビング王朝の遺品を納めた博物館が沢山あり、もっと時間が欲しかったが、全員が考古学に興味があるわけではないし、お城にも早く着きたいので次回を楽しみに適当に切り上げる。
今夜の宿はルイ14世が好んだ地に狩りの館として建てられた城=Chateau D'Hassonville、バスで来る人なんて少ないんでしょう、奥までバスが入れず、笑った。

ベルサイユ宮殿を建てたルイ14世は、こんな所まで「遊びに」来ていたのだと、列車や車の無かった時代の、彼らの行動範囲の広さに感嘆。
もっともルイ14世の時代にはベルギーやオランダという国は存在せず、この辺りはルイ14世の勢力範囲だったことは、来る前に本で読んだけれど、現在は他所の国になっている場所で狩りをしていたことを、皆は不思議には思わないのかしら。

現在のダッソンビル城の周りは、かなり開発が進んでいる様子で、近づくに連れて無粋な近代建築の塔や工事現場などが見えて心配したが、お城は低い塀に囲まれ、すぐ近くでも近代建築は見えない。
泊まったシャトー

城の建物へは門を入ってから細い道を大分走るが、途中には大木の枝が低く垂れ下がってバスの進路を塞いでいて、私たちはそこから歩いて建物へ。他の客の高級自家用車は中庭に入っており、多分こんな所へバスで泊まりに来る団体さんは我々が初めてなのではと、おかしかった。

現在のオーナーはルイ14世とは関わり無さそうだが、家族で隣にある小さな、やはりお城風の家に住んで、ホテルを運営しているらしい。

ホテルに入ってすぐのホールにあるレセプション・デスクの前には、本物の木の燃える暖炉、奥には由緒ありげな家具や食器が飾られたリビング、そこで待つうちに一人一人名前を呼ばれ「お部屋へご案内」。メンバーの半分は、ホールと同じお城の建物の中にある部屋へ、残り数人は、中庭を隔てた向かい側の少し新しい建物へ。一見、昔は馬小屋だったんじゃあない、という感じの建物だが、中は旧館と同じように作られていた。

プチ・ホテルとかシャトー・ホテルという宿は、外見は申し分ないけれどホテル用に建てられていないところが多いので、部屋に大小があったりトイレが狭かったりが欠点だが、ここは、住居用というより元々狩りの「宿」として建てられているので、部屋にさしたる大小は無し、バス・トイレも改築したらしく立派だったが、廊下は暗くて段差があり、三階でもエレベーターは無しで、ポーターには気の毒だった。
背の高い白人の美男子と、キリリとした若い女性達は、何だかルイ14世と無縁には思えず、重い荷物を運んでいるのを見て、恐縮してしまった。
メンバーの一人から、良い宿に泊まる時には、もっと早く到着にして欲しいと言われたが同感、でもヨーロッパは4月ともなると日が長く、ゆっくり散歩の時間が確保できて助かる。見学したい所も多すぎて、早く到着するのは至難なのだから。
前日の雪のせいで足元がいまいちだったが、皆さん散歩した様子、広い庭園には馬(ロバ?)、猟犬に孔雀までが放し飼いになっている。寒くてここは花が少なかったが、スケッチをする人もいた。夏は素晴らしいだろう。

夕食は、本棟と厩舎?を繋ぐように建てられた宴会場に隣接するレストランで。この部分だけは新築らしくモダンで、まだ明るい庭が見渡せるようになっている。こ
こはレストランとしても、ベルギーでのレストラン・ランキングで上位のお墨付き「黄金の鍵」を受賞した有名店で、ホールには授賞式の写真や、皇族が訪れた時の写真などが飾られている。食事もとてもおいしく、皆大満足。赤ちゃんが居る人と、観光中に足をいためた人はルームサービスを頼んだが、こちらも問題なし。
4月16日(金):朝はモーニングコールを頼んでおいたが、いつまでたってもコールが無い。皆起きているだろうと思ったが、疲れて寝過ごしている人もあるかとレセプションへ行って確認すると、「さっき、もうコールした」と言いながら、私の目を盗んで電話台へ。ハハハ、気の強いこと。フランス人のこの気の強さが私は大好き。

朝食は本棟のサンルームで。昨日見た孔雀がガラスの外から見ている中、バイキングで。お客は私たちだけではなかったけれど、私たちの勢いに押されてか静かで、居ないのかと思った。
室内には大きなインコが籠に飼われており、客には無愛想だがスタッフには甘える。籠の中に入れた手に身体を摺り寄せて鳥が甘えるしぐさを私は初めて見、顔に表情の見えない鳥でも「心」はあるのだと、今更ながら感心、様々な動物をペットにしていた昔の王侯貴族の生活を偲ぶ。
朝食レストラン
アンヌボア城 食後小休止の後、木の陰に停まっているバスまで再び歩いて行く。今日はアルデンヌ地方の古城巡りだ。
まずはアンヌボア城。噴水が美しいことで有名な城だが、今は花も一杯で、更に美しい。
高低差だけが動力
城内には水位の高低差と噴出し口の工夫で、全く水の力だけで動く様々な形の沢山の噴水がしつらえてあり、庭を巡りながら見られるようになっている。庭の一段高い所には運河が作られており、この水面の高さが噴水の動力になっている訳だが、そんな力の源とは思えない静かな流れには、カモなどの水鳥も浮かぶ。
水鳥が浮かぶ運河 この城には現在も城主一家が住んでおり、地階は公開されているが上階は住居ということで非公開、ホールからは、池を隔てた正面に、庭で一番美しい噴水が見られるようになっている。大勢の庭師が今も働く、広大な庭園の美しさでも知られるこの城は、最近ガーデニングの流行で観光客が更に増えているとのこと、一部では植木鉢などの園芸用品も売られていた。
出口近くの売店で絵葉書を買おうと思ったが、どれも20年くらい前の写真かと思うほどのピンボケ、または印刷が悪いのか、買う気になれない。バカチョンで撮った私たちの写真をハガキにして売ろうよ、なんて冗談も飛び出す。城の周りには売店はこれだけ、外は舗装もしてない細い道一本を隔ててずっと林、バスが停まっていなければ、ガイド・ブックに載っているスポットとは誰も気付かない静けさだ。
次はヴェーブ城。アンヌボア城がそれでも人里近くにあるご領主の城という印象なのと違い、こちらは全く山の中の孤城。
ちょっと暗かった 山がちのアルデンヌ地方は、地下に沢山の鉱物資源が埋蔵されており、リール工業地帯を擁するフランス国境に近いこのあたりは、鉄鋼業が盛んな工業地帯として、私も学生時代に習った記憶があるが、この地方の古城が今も所有者一家によって保たれているその経済力は主に、城主たちが早いうちから鉱業の利権を獲得したからとの事。 中世の村のレストラン
中世の村のレストラン ヴェーブ城主も大変なお金持ちらしく、城の門に立つと、遥か向こうの別の山の中腹に、もうひとつ城が見え、持ち主は現在そちらに住んでいるとの事。と言うことは、こちらの山もあちらの山も所有しているわけだが、住居用として、全く人家の見えないこんな山の中に、新しく城を建てて、こんなご時世に住んでいると言うので一同感嘆、でも来るのが大変そう、夜になったら真っ暗で谷に落ちてしまいそうな所だ。
ヴェーブ城内部には、城主の日用品や武具、絵画、写真などが昔のままに残されているが、天井が低く案外狭い。いくら家来が居るからといって、こんな狭い室内で灯りも充分でない生活は、城主といえども安楽とは言えないのではないか。フランス・ロワール河の古城に、同じような建て方の城があったのを思い出す。ここでは別の日本人の団体に会ったが、それ以外には、まるで人の気配が感じられない、そんな中に日本人だけが団体で大勢、というのも笑える。
ディナン城砦上から 昼食場所はヴェーブ城から山を下りてすぐ、中世の村そのままの余りに濃い雰囲気に、一同が思わず感嘆の声を上げる。レストランと宿を兼ねたオーベルジュだが、次回は必ず泊まりたいとボーッとなる人まであり。食事中に急にヒョウが降ってきたが、食後には大粒の雨の中、村の中を歩き回る。帰ってから本で確認したら、すぐ横にあった教会は、一部は七世紀の建造物、全体も十一世紀に建てられたもので、保存状態もよく、ガイトブックには載っていないが歴史書には載っている、有名なものらしい。何しろヨーロッパの中でも、イタリー以外では最も早くキリスト教が認知された地域なのだから、この辺りの教会は結構重要なのだ、もっと良く見たかった。今回の旅の中でも特に印象的な場所だった。 ノートルダム寺院のステンドグラス
ノートルダム寺院のステンドグラス 食後にはディナンへ。お金が足りない人が出て、まず銀行へ。日本の銀行とは勿論やり方からして違うのだけれど、何よりの違いはノンビリしていても誰も焦らないことか。日本人の観光客も多いはずだが、日本円の両替は慣れていないらしく、相談したり何回もやり直したりするので、貰った後では皆に「桁(ケタ)」だけは確認してもらった。

山の上の城砦へはケーブルカーで。お天気も良くなり、公園のようになった頂上でしばし景色を鑑賞、歩いて登る道もあるようだがパス。ディナンの写真としてお馴染みの、黒いネギ坊主のついた教会を上から眺める。下へ降りてみると、先に降りた人達がケーブルカー乗り場のすぐ横にあるそのノートルダム教会に入っていて、ステンドグラスが美しいと言うので即、残りの人も入る。

ディナンはこの地方で取れる銅、錫製品の加工で有名で、それらは町の名前を取ってディナンドリーと呼ばれているが、それらを買おうと土産物屋へ。
店の中には赤銅の鍋、フライパン、ワインクーラー、紅茶サーバーや錫の花瓶などが所狭しと並んでいる。ここ独特とは思えないデザインのものもあったが、皆、様々に買い物、重いので心配になる。ピノキオのじいさんのような店番のおじさんは、見るからにガメツそう、「まけて」と声を掛けると、オーナーは女性で今は居ないからと逃げる。それでも皆、幾らかは値切ったらしい。包むのにまた時間がかかる。
バスに乗るべく歩いていると「トイレ」の声。町中でとてもトイレの借りられるような場所は見えず、仕方なく市庁舎のを借りる、と見るや、トイレに行きたくない人までが内部を見るために走って行く。

バスはミューズ河畔に停まっていた。ガイドさんが電話を掛けに行っている間に、先程通った細い岩の名前バイヤールについて簡単に説明。
岸壁からバスがギリギリ通れる距離だけ離れて大きな岩が一本立っている、それをバイヤールの岩と言って、古い昔カール大帝(古い方)の家来の一族が飼っていた、魔法の馬が蹴った跡とされている。

私は歴史的なことや伝説など、ガイドブックだけでは知ることの出来ない文化的なこともガイドさんに言って欲しかったが、日本人はそういうことに関心が無いと決めているのだろう、ここディナンがサキソフォン発祥の地であることは言ったが、伝説については触れずじまいだった。せめてバイヤールが魔法の馬の名前であることくらい、言って欲しかった。
このときはガイドさんが居ないすきに説明してしまったが、あまり口を出してもガイドさんに失礼だし、今に言うのかなと待っていたりしてイライラすることが多かった。そういう点ではガイドが現地人だと、通訳は大変だが、日本人に興味のありそうなことを自分で付け加えられるので、私は楽。

その細い岩の脇を今日三度目通って、いよいよ今夜の宿デュルビュイへ。
世界一小さい町というけれど、こんなに有名では俗化しないではいられないだろうと、見るのが何となく不安。
ガイドさんの話では、ベルギー・アルデンヌ地方へ一番沢山来るのはオランダ人のようで、でも彼らは無駄遣いはしない民族なので、車の後ろに食料品を一杯に積んだキャンピングカーを付けて現れ、観光地にはまるでお金を落とさない、全然儲からない客だとのこと、フランス人と同じく生活を楽しむ優雅な民族らしいベルギー人とは肌が合わないのだろう、ガイドさんの口からはこの手の悪口?が何度か聞かれた。
ベルギーの中でもここはフランス語圏で、気風もフランスに近いので、オランダ人がそう見られているのだろうけれど、ベルギー西部のオランダ語圏では、どう見られているのだろうと、ちょっと興味を持った。
でも「世界一」美しいと言われる町に来るのだから、私にはケチとは思えない。なんて無駄の無い、程度の高い楽しみ方だろうと羨ましくなる。そういう実質的な楽しみをする人達が評価するならば、町は本当に素晴らしい所かも知れない。

デュルビュイに近づくに連れて、なるほどキャンプ場が沢山見えてきた。そこを過ぎるといよいよ町の中。
小さい、と言っても広場の周りにはホテルやレストランの豪壮な建物が並び、町は小さくは見えない。町の範囲は小さいのだろうが。絶壁の山に囲まれた感じで、その山の中腹や山頂付近にもステキな家が見える、あれがこの町の境界か。

私たちの宿は、この町でも一番グルメで有名なオーベルジュ(宿兼レストラン)の Le Sanglier des Ardennes、アルデンヌの猪という意味の名前なので、店の上には猪の像。昔の旅籠という印象。狭い道に面した店の前に車を停めたが、泊まるのは少し離れた場所だと言うので少々がっかり。
来る前に読んだ観光局の記事には、ここのオーナー一家はこの町で5軒ものホテルを経営していると書いてあったが、5軒とはどんな大ホテル・チェーンかと思ったら、私たちが案内されたのは「宿」ともいえぬ小さな家屋、なるほどこの程度の大きさの宿を5軒なんだと納得。
部屋は古びて「旅籠」という感じだが、バス・トイレは超モダン、私の好みのしつらえだ。荷物運搬用にエレベーターも付いていてポーターも安心、か。
例のごとく、もう少し早く着きたかったなという印象だが、とにかく皆荷物を置いて外出。ホテルが満員と聞いていたので、どんな状況かと心配していたが、町は静か。川岸にはお城があるが非公開、つまり現実に中に住んで生活をしている人がいるということ、こちらも鉱業で富を得た人だという。カーテンが閉まっていたり、飾り物がしてあったりするのを見て、遠く外から住人の生活を想像する。
可愛い店が細い道のあちこちに並んでいるが、なるほど小さい町で、何処へ行っても同行のメンバーに遭遇。まだ金曜日だが観光局のオフィスは既に閉まっており、土産物屋も閉まりかけ、でも日本と違ってデュルビュイ煎餅があるわけでもなし、絵葉書ぐらいしか買うものは無し、目と足で楽しめということか。

夕食はお楽しみ、世界でも指折りの有名なレストラン Le Sanglier des Ardennes にて、という割には、特別美味しいとは思わなかった、というのが皆の印象。でも途中で、写真で見覚えのある有名シェフがちゃんと挨拶に来て満足。
ガラズ張りのダイニング・ルームからは、下を静かに流れる大きな川、真近にそそり立つ岩山が見える。大勢の人が泊まっているとはとても思えない静かなたたずまい、ヨーロッパの人が好きな旅って、こんなのかなと思う。世界中の人が集まるにしては治安は極端に良さそうな雰囲気で、食後散策を楽しんだ人も多かったようだ。

4月17日(土):荷物を部屋の外に出してから、昨夜のレストランへ歩いて行く。早く宿を出て、朝の散歩をした人もあるようだ。
朝食場所は昨夜と同じダイニングだが、コーナーが変えてあって、食事中に昨夜とは違った景色が楽しめるように配慮してあった。一ヶ所しかないダイニングでもこの心配り、感心した。
食事中にメンバーから、壁に沢山ディスプレイされている葉巻についての質問があり、私の独断と偏見で「葉巻は植民地を持っていた国の人が嗜むことが多いのよ」と答えておいた。実際カリブ海とかアフリカ、東南アジア産が多く、嗜む人は欧米人が多いのだもの。かつてのベルギーの植民地に葉巻の産出国があったかどうか定かではないけれど、展示されていたものは東南アジア産が多かった。展示品は売り物だったが値段が余りに高いのでびっくり、厳重に鍵が掛かっていた。

さて出発、今日は忙しい日。
午前中はルーヴァンへ行く予定だが、途中(とも言えないけれど)リエージュに寄って欲しいとリクエストを出してあった。
リエージュは本当は川からの眺めが素晴らしく、今回是非船で通りたかった町の一つだが、ベルギーの船旅がダメだったので諦めたもの、行った人全てが「美しい町」といっているので、時間が無いならばせめて町中を通過したいと思ったが、こういうことは私が日本の代理店へ言い、代理店が現地事務所へ伝え、現地事務所がバス会社とガイドへそれぞれ伝えるので「伝言ゲーム」のようなところもあり、先日の「ベルフラワーの森」同様、時には意志の疎通を欠くことになる。
リエージュもまずは運転手から、ルーヴァンに行くには寄り道になると苦情を言われた。ただ通るだけだからと言ってもなかなか納得しない、こんなことを来てから談合するハメになるなんてとウンザリする。更に私は「通過」と言っておいたが、運転手は「車窓から観光」と思っていたらしい、あいにく町の真中が工事中で渋滞にも巻き込まれ、私の気持ちが充分叶ったとは言い難かった。
ここは学校の授業でも度々出る、ベルギー・フランス国境にまたがる鉄鋼地帯の一部で、先日から見てきたお城の城主達も、大半はここに何らかの関連を持っているのだと思う。また日本では一般的でないために知られていないが、特産の鉱業資源から作られる銃器類の生産では世界一、ガイドさんにはそういうことも説明してもらいたかったと、残念に思った。
出発前、ちょうど新聞でベルギーチョコの特集をしており、ここリエージュの非常に小さいチョコ屋さんが、現国王即位の後、直々のお名指しで王室御用達に指名されたと聞き、これも是非寄ってみたかったが、土曜の上、私たちの通過時間が早すぎ断念。残念、と口惜しがっていたら、途中に立ち寄ったガソリンスタンドの売店に、小さい包みが沢山置いてあるのをガイドさんが発見、私が皆に言ったので、店のチョコは根こそぎ?無くなってしまった。運転手さんもそれはおいしいチョコとお薦め、私も沢山飼ったので、帰国後随分楽しめた。

リエージュ(オランダ語ではライク)の町は、昔の司教座といって、ここだけで司教様が一つの国のように領土を治めていた場所で、しかもこの辺りの歴史では最重要な最強教区、私のように歴史に興味のある人間には見過ごすことの出来ない場所だが、今回は時間不足でパス、2000年にはカール大帝(後の方)生誕500年で、ベルギー中が歴史イベントで盛り上がったが、そのときの一つの中心にもなった。
いよいよルーヴァンへ向かう。

ベルギーについては、日本ではブリュッセルとアントワープ、ゲント、ブルージュなど西半分については最近比較的知られるようになってきたけれど、ブリュッセルより東の都市群、そして国としての歴史については、まだフランス、ドイツなどのようには知られてはいない。けれどこれらの大国の国境線が今のようにはっきりしていなかった時代、日本で言えば戦国時代には、大国に挟まれていたゆえにこれらの国々の侵略を受け、そのために文化的にも様々な影響を受けてきたのがベルギーという国だ。特に西暦2000年にはベルギーだけでなくドイツ、オーストリア、スペイン、オランダの王でもあったカール大帝の生誕500年ということで、様々なイベントが企画された。チョコやレースの買い物も良いけれど、色々な国を訪れる人たちはエチケットとして、その国の文化や歴史的なイベントにも充分な興味を持って欲しいものだなと、いつも思う。

ルーヴァンは、そのカール大帝の数代前には大変栄えた町で、一時はブリュッセルと首都の座を争ったこともあるというが、ガイドさんの説明はもっぱら学生の町であることとビールで有名という現在の話。今までにこの町を訪れた人の写真を見せてもらっても、ビールを浴びながら勉強する学生の像の写真ばかりで、いかに私達日本人の観光に歴史的視点が欠けているかを示しているが、ここはベルギー出身のただ一人のローマ法王アンドリアン六世が暮らした場所で、彼はルーヴァン大学の総長でもあった。

ベルギーはフランス語と、オランダ語に似たフラマン語という二つの言語が公用語として定められており、現在も両言語が勢力争いをしている国として知られている。
この対立は「融和」という解決ではなく「並立」ということになっており、何年か前には争いがエスカレートして、大きな石を投げ合ってけが人も出るような暴力沙汰も、日本のテレビで放映されたことがあった。
旅行する者にとっては、同じ国の中で突然言葉が通じなくなるのは不便だが、自分の言葉となると譲ることは出来ないのだろう。ベルギー観光局も言語二本立て、情報源も別々の二本と聞いているし、本国では地名の表示も二種類(これが綴りが違うなんてものではなく、まったく別の地名もある)、軍隊、警察など官庁までもが、言語別に分かれていると聞いている。
こんな中、あおりを受けたルーヴァン大学は、エラスムスや地図で有名なメルカトールが学んだヨーロッパ有数の古さを誇る大学にも拘わらず、二つの言語の中心となるべく、つい20年程前には、言語別に新・旧二つの大学に分離され、図書館の蔵書までが二つに分けられたとの事で、現在ここのルーヴァン大学はオランダ語が中心、フランス語用には別の地に新ルーヴァン大学が創設されている。日本では考えられないこのような話は、是非皆にも聞かせて欲しいものだが。
市庁舎 ルーヴァンの見所は町の中心の徒歩5分以内のところに集中している。バスが停まったすぐ前に、例のビールを浴びている学生の像、そのすぐ後ろが教会、でも教会のすぐ隣にある市庁舎が圧巻で、皆の驚きの声があがる。
ゴシックの典型と言われる、建物全体が尖塔に囲まれたユニークな建物だ。周りにくっついた建物が無いため写真は撮りやすいが、高さがかなりあり、尖塔の先を入れるのが厳しい。
この教会の外側には例のごとく、文字の読めない人にも分かるようにと旧約聖書の場面がレリーフで描かれているが、アンドリアン六世の像も置かれている。だが、ここでもガイドさんの案内は不充分。私に取って残念なことに客の中にはガイドブックを全然読んで来ない人もあること、また読んできてもそれがここのことだとピンとこない人、内容をほとんど忘れてしまっている人もあるのだから、そして大部分の人に取って再度訪れるチャンスは無いのだから、是非是非案内はしっかりやってもらいたいといつも思う。
教会の前の売店で市庁舎の写真のハガキを買う。フランス語に全く反応を示さず、英語で価格を伝えるオバチャンに、オランダ語圏へ入ったことを実感する。

次の見学地はアントワープだが、同じく寄り道をしてリールでジンメルの時計台を見たいとリクエストしてあったが、運転手には伝えてなかったか同意を得てなかったか、時計台のテッペンが遠望できる町の外側で、「もうこれ以上町中へは入れない」と立ち往生、結局そのままアントワープへ向かう。ま、塔の中に入れなければ意味無いから、時間不足のままで寄るよりは良いか。
アントワープはベルギーの行政上の首都ということで、当然混んでいるとは分かっていたが、町中へは入れない、と町の外で運転手とガイドさんの論争が始まり、結局バスの駐車場近くで降ろされてしまった。

後は徒歩観光となったわけだが、ガイドさんはアントワープの町は初めてではないだろうに、我々を引き連れてウロウロ随分歩いた。
土曜日の昼時とあって町は大変な混雑で、ガイドさんを見失わないようにするのが大変なくらい、その町の真中で、昼食場所のレストランが見つからないと言う。日本を出発する時にもらったバウチャーと違う場所になったとの事で、彼女はどうやら、道の名前から店を探そうとずっと歩いていたらしい。結局携帯電話で店を呼び出して迎えに来て貰った。
レストランの中には例のごとく日本人の団体が何組もあり、それぞれ食事の終わったグループ、私たちが食べている間に来るグループと忙しい。日本人のグループが多いのは、トイレが大きいからか?いまどき珍しく、臭いのきついトイレだった。
店はオペラ座の近くにあるとの事で、店内にはオペラの衣装やポスターなどが沢山陳列されており、また日本人ガイドの溜まり場になっているようで、あいさつをしたり情報交換に忙しそう。うちのガイドさんは何故場所を知らなかったのだろう。
ノートルダム大聖堂

「フランダースの犬」で有名なノートルダム大聖堂観光の後、午後はルーベンスの家へ。ルーベンスは画家として生存中から大成功しただけでなく、七ヶ国語を操り外交官としても活躍した、あの時代のダビンチとも言える多彩な才能の人で、家も個人のものとはとても思えない大豪邸、残念ながら工事中のためアトリエ部分は見学出来なかったが、彼が生きた時代の金持ちの暮らしがよく分かる邸宅内だった。

そろそろみんなもお疲れなので、観光はこの辺で切り上げて、いよいよ船へ向かうことになった。またしても歩いてバス・デポへ。ガイドさんは船の係留所よりもここの方が駅に近いからとバスに乗らず、あとは私が運転手にフランス語で指示をすることになった。

ガイドと別れて、いよいよアントワープの港へ。
さんざんFAXのやり取りをし、相手の会社は間違いない人たちと確信はあるものの、出発前には船にも直接電話をして私たちの予約が入っていることを確認してあったけれど、それでも港に船がいなかった時にはどうなるのだろう、この満員の時期に18人もが路頭に迷うことになったらどうしようと、皆がはしゃぐ中、私一人は港に向かうバスの中でドキドキ。港自体が大きいため Allure のような小さな船は、内側に入ったドックに停泊しているとのこと、指定されたドックに近づき何隻かの船が見えてくると、バスのドライバーが「あれか?」「これか?」と走りながら訊ねるけれど、彼は大きな客船を考えていたのだろう、訊ねられるのはどれも大き過ぎて違う。
3時には待っているはずで私たちのほうが遅いことになっているけれど、もしかして来ていないのではとか、やっぱり危ない会社だったかと、もう心臓が破裂しそうな時、一番前に座っていたBさんが、ガイドブックと一緒に送っておいた Allure号の写真を取り出しドライバーに見せる、それとほとんど同時に「あっ、あれだ、あった」と皆の喚声、甲板に自転車を沢山積んだ Allure号が、沢山の白鳥に囲まれて、本当に待っていたので〜す。

バスが停まると船中からバラバラと人が。ホテルと違ってポーターもいないので、これも心配のタネだったが、バスの運転手、乗組員、そしてお客さんも協力して、まず荷物を船内へ。ドライバーは船員達と二言三言会話の後、去って行った。こんな船とは思わなかった、なんて言っていたのではないか。
甲板から階段を半分ほど下りたところがダイニング兼リビング、船中の様子が分からず部屋割りがしてなかったため、私はクルーとの挨拶もそこそこに、その場で名簿順に部屋を割り振り、リビング一杯になっていたスーツケースを取りあえずそれぞれの部屋に入れてから再度集合してもらった。
お茶とお菓子が早速出されて、自己紹介と船内ルールの説明が始まった。
女性オーナーのヨシは料理も担当、歳は30歳前後だろうか、いつもTシャツばかりでおしゃれな服を着ているのは見なかったが、ピンクの肌に金髪の巻き毛、子供の時に憧れた西洋人形そのままの可愛い童顔の女性だ。
スキッパーはトン、これはまた味も素っ気もない中年のおじさんで、感情が全く外に出ない人。船はいつもヨシと二人で運航している訳だが、半年以上も一緒の二人の関係は?と我がメンバーの好奇心を誘った。
ガイドは男でビンフリート、オランダ独特のサイクリングガイドという職種だが、別れるときには本職は音楽家と言って名刺をくれた。持参のアコーディオンの腕は全然たいしたこと無かったが、本職の楽器は何だろう、あの腕ではガイドが本業にならざるをえないだろうに。

船には船長の愛犬も二匹、大きいほうがシェパードの雑種のようなフリン、この名前には日本人が大笑いしたので、後で笑いの訳を説明しなければならなくなった。フリンちゃんは棒投げが大好き、始めると絶対止めないので、おねだりされても取りあわないよう注意があったが、この話の直後甲板に上がると、ちゃんと棒切れを前に置いてお座り、その率直な視線に皆参った。
もう一匹はペピー、日本でも最近人気のブリティッシュコギーという種類で、エリザベス女王の愛犬と同じなのに太りすぎのヨタヨタで、人からは雑種だろうと言われるとヨシは不満気。二匹の犬はキャリア?の差か、ペピーは必ずフリンに譲って行動するのが私たちの興味と笑いを誘う、心和む仲間。
ひとしきり話が終わったところで皆の自転車を決めるため、私たちは甲板へ。
自転車のサイズは、随分前にベルギーのブルージュで貸し自転車に乗った時、足の届くのが無くて苦労した教訓から、全員の身長を連絡するなど出発前に随分細かく打ち合わせをしたつもりだったが、陸に揚げて乗ろうとしてもジャーン、足が届かない。
船はあまりひと気の無い道路に接岸しているのでそれぞれ乗ってみたが、全員が give up、サドルが高く足が届かない。慣れない形の自転車に対する恐怖ということもあって、これではサイクリングは無理ではないかと絶望的な気持ちになったが、ガイドは早速工具を持ち出してサドルを下げに掛かる。
オランダの自転車は26インチが普通と言うので、ほとんどが身長150cm程度の私たちには24インチが希望とFAXて伝えたら、そんな小さな自転車は少ないので他の船からも借りておくと返事があり、実際最後にアムステルダムに着いた時には自転車をあちこちの船に返すので大変だったが、あの大きな自転車が24インチとは思えない。我々自身もガイドも、短足日本人に感嘆した一幕だった。
甲板一杯の自転車

食事の時間が来たので、不安を残したままこの日の自転車作業は終わり。
夕食は勿論ダイニング・ルームで。大きなテーブルが四つあり、仲の良い同士が自然に別れて座る。
契約では夕食は三品にフリードリンク付きということになっており、オランダではヨーロッパ風の料理の他、昔植民地だったインドネシアの影響もあって料理はとてもバラエティーに富んでいると聞いていたが、ホテルの料理に較べてあまりにお粗末だったらどうしようとか、私としては興味半分、恐怖半分というところだった。
でも食事に関しては満点。日本人がヨーロッパを団体旅行して食事で一番不満が出るのが野菜不足、立派なレストランの食事は見栄えは良いけれど野菜が飾りのようにほんの少しの事が多く、サラダの出ない時などは「野菜が足りない」と、旅の途中で八百屋に駆け込む人も度々出るありさま。
船の中ではテーブル毎に大皿で出されたものを各自取るようになっていたが、初日の夕食では、豪快に出る温野菜に皆大感激。またそれの美味しかったこと。夢中で食べる私たちはよほど飢えていたと思われたことだろう。
飲み物はアルコールでも清涼飲料でも一杯は無料、二杯目からはチャートに自己申告で書き込んでおいて下船時にまとめて精算というシステムだったが、いかにも安そうだったので、毎晩ウイスキーを飲む人、ワインのお代わりをする人など、この点でも楽しめた。
夕陽をうっとり眺めながら優雅にデザートを食べる私たちの目には、先程の白鳥が巣へ帰るのか、沢山に飛び立つのが見え、また感激。
デザートの後にはコーヒー、紅茶が飲み放題、その間にメンバーから、アムステルダムに着いたらコンセルトヘボーの演奏会に行きたいと言う希望が出る。また、ガイドからは夕食後アントワープの町を散策しようと提案があり、殆どの人が参加することになった。臆病者の私は、お客さんには原則として夜の外出は薦めないが、今度の旅では現地に詳しい男のガイド付きということで、安心してOKした。
ガイドは船に一緒に宿泊しており24時間勤務、私たちは船旅の間ほとんど毎晩彼と外出して、遅くまで明るいヨーロッパの夜を楽しむことが出来た。地理に詳しいだけでなく路傍の取るに足らないポスターや標識についても質問でき、思いがけない所にも入り込んだりで、夜の観光はとても楽しかったが、何より安全である点が嬉しかった。
      
昼間の市庁舎広場 私たちの船は波止場の一番奥まった所に停泊しているらしく、街に出る前に沢山の船の前を通り過ぎた。100メートルほど先には、私が暮れに連絡先を探して四苦八苦した CroisiEurope の大きな船が。ガラス張りのダイニングルームでは大勢の客が食事中、時間的にも丁度デザートなのか、外を見ている人も多く、お互いに手を振って挨拶。次の船はもっと大きくでやはり CroisiEurope の名前が外に書いてあり、こちらの船には近くに停まった観光バスから沢山の人が出たり入ったり。
夕方の市庁舎と巨人の手、各州の旗
オランダ近辺の船の競争関係に詳しくない私は、あまり他社に興味を持ってもガイドに失礼かと思って CroisiEurope のことは聞き損ねたが、私が出発前に入手した資料から判断すると、あれらの船もオランダ方面へ行くところだったのではないか、予約満員で断られた船も中にあったか。
向こう側には動かないレストラン船も。

その船たちが途切れた頃、道の反対側に薄暗く怪しげな明かりの灯ったショーウィンドがいくつか見えた。港町ならどこにでもある「飾り窓」。ガイドの説明に最初は誰もピンと来なかったが、アムステルダムが有名なアレと分かり、生まれて初めて見る本物の「売春婦」に皆騒然。
そこからは先ず大きな波止場へ。第一次、第二次大戦の戦没者慰霊碑とならんで、アントワープの歴史を物語る古い館や昔の荷揚げ場、そして昼間も行った中央広場へ。昼間も日本人ガイドと来た所だが、説明する項目がまるで違うのが面白い。照明に照らされた巨人の手は昼間よりはずっと印象的、思ったより人出もあったが、土曜日のせいか、土曜日なのにか、食べ物屋はあまり開いておらず、ガイド無しには絶対出られなかっただろうという印象だった。
一時間半程の散策の後、帰りにはまた飾り窓を、今度は興味深々で遠望したが、客はいるのかいないのか、動きは感じられなかった。が、手招きしていたという人があり、誰に?と揉めた。
CroisiEurope の船ではバスは去り、食事もすっかり終わり、何人かの客がテーブルでカードなどをしているのが外から見られるのみ、皆既に自室に戻ったのだろう。

船へ戻って長かった今日一日は終り。皆が自室へ引き取った後、私はガイドと明日からの打ち合わせ。明日はバスで出かけるけれど、あちこちの入場料は私が全員分まとめて払うことを告げ、FAXで打ち合わせた行く先を網羅すれば、順番はガイドにお任せということで部屋へ引き取る。

部屋は、大きなスーツケースを二人で広げるには少々手狭という感じだが、皆は備え付けの戸棚などへ荷物を入れ、スーツケースを何度も開くことはなかったよう、ダブルベッドだった私の部屋以外は全部ツインだった。一部トリプルにも使えるという部屋には三番目のベッドを載せるための金具が付いていたけれど、二段になった下の段が狭そうで、大人には無理という印象。
だいたい身体の割には西洋の何処へ行ってもベッドが小さいのは不思議。寒いということ、私たちが屋敷を見学するような身分の高い人たちは、いつも緊張して寝ていたからとか、寝たままで食事していたからとか、大の字にならない理由を色々説明されたが、現代のホテルの中にも時には随分小さいベッドが見られる。Allure のベッドなどは大柄なヨシやトンが同じサイズのベッドに寝ているとしたら、さぞ窮屈だろう。ましてや二段のものは、寝返りの高さも無いように見えた。
部屋にはトイレと洗面台、シャワーが付いていてお湯も十分出たが、世界一背が高いというオランダ人の標準サイズなのか、トイレに座ると足が浮き、洗面台はシンクが小さい上に高すぎで使いにくく、鏡には顔が半分しか映らない。タオルは汚れたのを室外に出しておくと取り替えてくれるとの事、部屋には鍵もかかるけれど、鍵を貰っていたYさんも二日目には返してしまったらしい。一応内側から施錠して就寝。

4月18日(日):8時半朝食、のんびりしたものだ。たいていの人は早く起きて甲板へ。昨日の大きな船がもう出港したり、位置を入れ替えたり、若い人たちが大勢乗り降りしたり、朝から結構にぎやかだ。船の周りには白鳥がまた沢山寄ってきているが、フリンがそれに向かって吼えまくる。
彼ら犬たちは船から岸へ出たり入ったり自由だけれど、決して遠くへは行かない。日本の犬に比べておとなしい印象。早起きの人に聞いたところでは、毎朝ヨシが犬を連れて船外に出、適当に運動させているとのこと、糞はどうしているんだろう?オランダも犬の糞の危険地帯。

朝食は色々な種類のパンに薄切りのハム、チーズが沢山、ゆで卵、バター、ジャム、ヨーグルト、牛乳、コーヒー、紅茶というところ。出ているパンを夢中で食べていたら暖かいパンが出て、またそちらにも飛びつく。今日はバスで出かけるので昼食のサンドイッチもつくれとのことで、更にハム、チーズ、果物を取って準備、これが「昼食付き」ということかと納得。
自分で作るということでハム、チーズを三枚も重ねた上にジャムまで塗ってサンドイッチを作った人もあり、後で現地に長く住んでいる人から聞いたところによると、オランダ人は「しまりや」という言葉がピッタリで、ハムもチーズも世界一薄いだろうものをパンには一枚載せれば充分で、沢山載せないよう子供の時から厳しくしつけるとのこと、船の人たちは私たちの大盤振る舞いならぬ大盤消費にさぞ驚いたことだろうと後から恥ずかしくなった。初の日本人客なのだから自重しなくては。
食事をしている内にバスが到着、白いヒゲをはやしたドライバーが船の中まで入ってくる。契約ではバスはエアコン、ビデオ付き、32席のサロン・バス風とあり高級車という印象だったが、来たのはごく普通のバス、契約通りの設備は付いていたが日本のようなピカピカではない、ま、いいか。9時半出発。
まず西のミテルブルグへ向けて走る。何しろ荷物の心配が無いので楽チン。しばらく走るともう油絵の具を塗ったようなチューリップ畑が遠くに見えてくる。様々な色を列状に植えてあるので、遠目にはベッタリ塗った帯状に見える。
この後オランダの土壌についてガイドの話しがあるのだが、内陸から続く粘土質の土壌と、海から打ち寄せる砂とのミックスが、チューリップの生育には一番適した土壌だそうで、そういう意味でチューリップ栽培はオランダに一番適した産業だと言う。
最初は球根だけが売り物だったけれど、帯状に植えたチューリップの遠景の美しさが人々の口にのぼるようになってからは、色の配列なども意識して、また順番に咲くように工夫して植えるようになったという。
そんな話を聞きながら通過する辺りは、1953年の大洪水で大きな被害を受けた後に堤防を作って仕切った内側にあたり、太い水路が縦横に通っている。まず天井川のようになっている水路の下を通り、大きな島状の土地へ入る、次は橋を渡って隣の島へ・・・、あっという間にミテルブルグへ到着。
チューリップの帯

ミテルブルグはオランダ南西部ゼーランド州の首都で、古くはジャワ貿易の中心となって大変栄えた所。一方で州名 Zeeland=Sealand が示す通り、この地方は海の中に細かい島々が浮いたような地形で、長い間海水との闘いに明け暮れ、この後観に行く大堤防は、歴史に残る1953年の大洪水の後に建設されたものだ。
州名の Zeeland は New Zealand の元になったと聞いたが、Sealand という地名は他にも世界中あちこちにあり、オランダの Sealand がニュージーランドのもとになったのかどうか、本当のところは不明。

日曜日なので建物の大半は閉まっており、外観のみの見学。昔オランダ東インド会社の船の基地の一つだったので、今後オランダの各都市を巡る度に聞かされることだが、かつての東洋貿易の繁栄を物語るように建物は石をふんだんに使った豪華なもの。山の少ないオランダでは「輸入品」となる「石」造りの建物が富裕の印とかで、レンガ造りの建物は石の取れないオランダの苦肉の策とか、かつて繁栄した時代に建てられたものは石で出来ているという。

初めて見る建物の様式や、あちこちに転がっている犬の糞をネタに賑やかに歩いていると、突然厳かな賛美歌の音、今日が日曜であること、この国が厳格なプロテスタントの国であることを思い起こさせられる。
カトリックの堕落が一因となって起こったプロテスタント運動のひとつカルバン派の中心地であるオランダでは、今でも生活の大部分がプロテスタント信仰に深く根ざしており、日曜日は教会へ行くために何もかもが徹底的に休み。その熱心な信徒が集い歌う賛美歌に、一瞬私たちもシーンとなる。
民族衣装を着た人が目に付く、とガイドブックには書いてあったが、日曜では全員教会の中なのだろう、観光客以外には全くひと気の無い中心部から、歩いてミニチュア・ワルヘレンへ。ここは遊園地なので観光客の他にプロテスタントでないオランダ人も遊びに来ている。ハーグ近くのマドローダムと同じく、ここはミテルブルグを中心とするワルヘレン地域をミニチュアにした公園で、本物のチューリップまでが小さく生育してある。オランダ名物の運河のミニチュアもあったが、その水の中に大量のオタマジャクシを発見、あの後どうなったかしら。
   
大堤防 再びバスに乗っていよいよ海岸へ。1953年の大洪水の後、洪水の被害を防ぐために海側の小島を結んで堤防を作ったその場所が、一種の公園のようになっている。この大洪水自体を私は知らないけれど、犬飼さんの著作の中には、このとき大勢のヨーロッパの若者が救援活動に携わったこと、彼女自身もそれに参加して、同じヨーロッパ人でも民族によって様々な性向があることをまざまざ感じたことが書かれていて、それも非常に印象的に私の記憶に残っている、楽しみにしてきた場所のひとつだ。

好天の下、大堤防公園はそんな災害の痕を何一つ感じさせない明るいたたずまい。まず建物の中で大堤防建設に至るまでを解説したビデオを見る。
ここの堤防に先立つオランダ北部アイセル湖の大堤防もあって、オランダの干拓、堤防建設技術は世界的に有名だが、環境にも配慮した長期間の事前調査から、自然環境を出来るだけ保ったまま大掛かりな建造物を建てるための様々な工夫、技術的な開発についての映像が紹介され、海の底にも種々工夫がされていることを知る。

平坦地ばかりのオランダでは家を建てるにも高価でなかなか使えない石や岩の輸入にも、大金が投じられたとのことだ。
こうしてオランダ西海岸のほとんどが堤防で塞がれたわけだが、世界有数の貿易港であるアントワープ、ロッテルダム港に至る一部だけは通路として残されている。
ここから程近いデルフト大学が、堤防関係では現在一番の技術を誇っているとの事、国運を賭けた大事業で苦労も勿論あるだろうけれど、ひとつの大学を挙げての研究の現実的テーマがあるというのも、産学協同の是非が果てしなく論じられる日本に較べ幸せなことだと感じた。

ビデオの後は船に乗り、堤防で仕切った内側を見学、水中に沈めた柱のサンプルが波止場近くに立ててある。下船後は堤防を近くまで見に行く人もあり、大きいのに驚嘆、遊園地になっているので遊ぶ所もいくつかあった。

再びバスに乗り小さな島をまた橋で越えながら、Allure が先行しているウィルムスタッドへ向かう。ウィルムスタッドの波止場は、大きいアントワープと違い漁村とヨットハーバーが一緒になったような所で、近付くにつれてヨットのマストが乱立しているのが見える。船で一休みの後、町中へ徒歩観光に。

波止場近くにはレストランやら宿らしい建物に、観光客らしい人が一杯。私のガイドブックには全く載っていなかった町だが、オランダ建国の父ウィリアム公の最初の領土ということで、近代オランダ最初の町、結構な観光スポットらしい、美しい町だ。
ヨーロッパの人達にとっては、往時のこの辺りの騒乱はすべて自分の国の歴史に何らかの関わりがあるわけで、この地の由緒も自分たちと無関係とは言えないわけだ。知らぬは我々だけか。
日本人は珍しいのだろう、私たちも大いに見られた。

スペイン戦争時代の要塞跡が往時を忍ばせるが、日曜日のせいか町の中は恐ろしいほどの静けさで、人影もまばら。宗教改革のためにカトリックからプロテスタントに変わった教会の形状の変遷、プロテスタントの教会を外観で見分ける方法などもガイドから聞く。

町外れには大きな City Mill がある。風車は灌漑以外に粉引きなどの動力源としても昔から使われており、たいていは地域住民の共用にされていたようで、この後も多くの町で City Mill を見た。

そろそろ船へ戻ろうという時になって、歩いている私達の中にもう一人日本人女性が加わっていることに気が付いた。この町の住人と結婚してここに住んでいるという彼女は、買い物の途中で私たちに気付いて話し掛けてきたらしい。つい最近日本に行って来たばかりと言いながらも別れがたかったらしく、彼女は自転車を引きながらとうとう船の繋いであるところまで来てしまった。
思いがけない出会いにこちらも興味津々で色々彼女に質問していると、どうしたことか話している彼女が突然涙ポロポロになってしまい、こちらもシンミリ。時間と僅かなお金さえあれば、ほんのひとっ飛びで帰れるとはいえ、こんな日本人の少ない所に住んでいては日本語で思うままに会話することもないのだろう、早口で一生懸命話す彼女に、異国に暮らす寂しさを見たような気がした。
出発時間が来てエンジンの掛かっている船の側で抱き合わんばかりの我々に同情して、トンは彼女に一緒に次の港ドルドレヒトまで来るように誘っていたが、だんだん日も暮れかけて来たことだしと辞退、お互いの姿が見えなくなるまで手を振って別れた。

次の訪問地ドルドレヒトへ着くまで、走る船の中で食事。今晩のおかずはおいしいメインに加え、付け合せのポテトが大好評、ヨーロッパのジャガイモはおいしいわね、なんて言いながら手では取り合い。またデザートのチョコ・ムースも美味しかった、再び大興奮のひと時。
   
自転車練習中 ドルドレヒト到着後は昨夕いい加減にサイズを合わせただけだった自転車の再調整、何しろ明日はサイクリングの予定なのに、まだ誰も乗れないのだから。
自転車は人数の三倍くらい積んであるため、まず大量の鍵が登場。小さそうな自転車の鍵を合わせてからガイドがサドルとハンドルを調整、それを岸壁沿いの道で試し乗りして、それぞれの自転車を決める。諦めていた人たちも乗ってみると案外ということで、殆どの人が明日はOKとなる。乗れる筈だけれど何年も乗ったことが無いという人と、完全に座席に座ってからでないと出発できないが、座ると足が地面に届かないという計4人は完全 give up でガイドをガッカリさせる。

大騒動の自転車作業が終わり、また希望者のみ、と言っても大部分が参加だが、徒歩市内観光へ。

ドルドレヒトは造船の町で、幕末の幕府軍艦で榎本武揚の函館戦争で有名な「開陽丸」もここで造られたとか。そのドックは今でも残っているとの事だが、出発前の近所の図書館の資料ではドルドレヒトについては何も知識が得られず、日本人の相手は初めてというガイドは日本に関連のあることにあまり詳しくなく、結局ドックの説明は無かった。

地盤の弱いオランダのこと、ここドルドレヒトの聖母教会も地盤沈下のため傾いていることが、上に載っている時計台を見ると分かる。その傾いた教会の壁にくっついて家が建っているのは、貴重な壁材、高価な石を節約するためで、この先オランダの至るところで見られた。
また家々の扉には郵便受けが付いているが、その小さな受け口には YES とか NO とかが二つづつかかれたラベルが貼り付けてある。日本でも最近は郵便受けに「ビラを入れないで」とか「有害ビラお断り」とか書いてある家が多いが、ここオランダでも新聞、郵便以外の配布物が多いため、YES,YES は何でも入れてOK、NO,NO は新聞、郵便以外はダメ、しかし YES,NO は有害、役立たずのビラはダメだがクーポンや割引券はOKという、ちょっと図々しい表示だとガイドが言う。
日本であの種の表示が役立っているかいつも疑問に思っていた私は、オランダでは果たして YES,NO が守られているのか興味があったが、彼によると「大体」は守られているとの事、しかし配る人の機嫌が悪い時などは、NO と書いてある家には沢山入れてしまうと、彼もやったことがあるのではと疑わせるような真実の声。

   
4月19日(月):朝になって再度調整したが結局4人は自転車には乗らないということで、14人が自転車で船を出発、4人はそのまま船で行きキンデルダイクで合流することになった。
出発時は小雨で案じられたが、途中で良い天気になる。自転車もなお不安な人もあったが、思ったより好調。
船を出てすぐの所で、向こう岸へ渡るためにフェリーに乗る。通勤に使われているらしく降りる人も乗る人もかなり沢山。向こう岸には船の事務所のような建物があり、ずっと我々を見ていたらしい大勢の事務員が、中から笑顔で手を振る。我々は目立つのだ。
大量の美しい花々に囲まれた途中の家々は前面が大きなガラス窓になっており、磨き上げられカーテンも掛かっていないその窓の奥には、室内ばかりかその先の裏庭までが見える。それにしてもどの家もモデルハウスさながらに内部が綺麗に整えられていて感心、思わず中を覗き込んでしまう。
後で聞いた所によると、プロテスタントとして誰にも恥じることの無い公明正大な生活を実践していることを誰に見られてもOKということで、「見て下さい」といわんばかりに開け放してあるとのこと、ズボラな人間には到底暮らしていかれそうも無い、花一杯のメルヘンチックな外見からは想像も出来ない、オランダの精神生活の厳しさを垣間見た気がした。彼らの精神的な強さは、この後も再三思い知らされることになる。
家の中からも、黒髪、短足、重装備の集団が珍しいのか、興味深げな視線が注がれる。
大部分の所には自転車専用の道が設置されており、景色も良くサイクリングが楽しめるが、専用道路の無い町中はかなり危険。でもオランダでは自動車に対し自転車が絶対的に有利に扱われており、事故を起こせば悪いのは常に自動車になるらしい。車に道を譲れば、かえって当惑したドライバーがサイクリストの予想外の行動に出るため危険、もっと堂々と走れと言われたが、いつも歩行者や自動車に遠慮しながら走っている習性がつい出て、我々は何度も停車して、却って交通を混乱させてしまった。自動車に対しては圧倒的に優位な自転車だが、自転車道路での自転車同士の右側通行は厳しく守られており、ついダンゴ状になる私たちは、何度も厳しく注意を受けた。
渡し舟
    
キンデルダイク あっという間にキンデルダイクが遠望できる場所に到着、住宅街のはずれの小高い場所から、風車が沢山あるキンデルダイクの全景が見渡せる。自転車で来て良かったと皆感激でしばし呆然、ひとしきり写真を撮った後、風車に向けて走り出す。
最初の風車には人が住んでいるようで、花と家畜に囲まれた小さな家が、波も無い流れに沿って立つさまは、子供の時に読んだ西洋の童話のシーンそのもの。
サイクリング
      
増水した時に通報する義務を負っている代わりに家賃はタダだろうとのガイドの説明、いくつもの風車が並ぶ周りは、畑、草原を囲むように運河が音も無く静かに流れる。
沢山並んでいる風車の内、内部を公開している1個へ向かう。途中の水路には様々な水鳥が遊び、辺りは花が一面、その中を時計を見ながらセッセと歩く日本人観光客もチラホラ。
記念撮影
公開している風車の付近には日本人の団体もいくつか、船で旅行中でここへは自転車で来たのよと、会う人毎に自慢してみせる。
船で来た仲間とは風車の入り口で合流、切符売りの大きなおじさんが木靴を穿いているのが珍しい。
風車小屋にはやはり昔は人が住んでいたとのことで、内部には寝室もあり様々な生活用品が展示されているが、背の高いオランダ人にはさぞ窮屈だっただろうと思われる小ささ。

風車の力伝道の仕掛けが良く分かる内部を見ながら一番上の階に上がると、遠くに風車の群れ、チューリップの色の帯も見える。この階は風車の羽が風を充分受けられるように、風の向きに応じて回転出来るように作られている。すべてが木造で、この後別の場所では火災に遭って黒焦げになった風車も見た。風の強い所を選んで建てられているのだから火事の時は大変だろう。

船はすぐそばまで来ていたが、途中、観光バスの駐車場近くに小さな土産物屋があり、結局全員がそこに入ってしまい、ガイドが呆れるほど大いに時間を喰う。船に戻って今日は移動する船中で昼食、船内での昼食にはパンの他にスープも出る。

食事中にロック(水門)を通る。
土地の起伏の多い所では水位を調整するためにロックが設けられている。土地が平坦なオランダではロックはあまり無いと思っていたがいくつかは通過、甲板に出てまたまた大騒ぎをした。
乗組員はロックの係員とは顔なじみらしく楽しそうにおしゃべり、停滞している間には手際よく水やガソリンを補給する。周りには自家用らしい船が沢山、ロックを通過すべく待機、こっちもそれが珍しくジロジロ見てしまったが、彼らにとっても私たちこそよほど珍しかったみたい。
自分で操縦するとなれば、こういう場所ではどうしたらよいのだろうと、操縦士付きの船で良かったとホッとする。

ロッテルダムは第二次大戦で徹底的に破壊されたため、私達が見たがるような歴史的建造物は少ないということで、ガイドの話を聞きながら川の中から観光することになり、オランダでもそう沢山は無い、列車が通る時だけ下に下りる鉄橋などを見ながら(ちょうど列車が近付き、下降するのが見えた)通過。
さすがにロッテルダムの川は川幅が広く、ここを自分で操縦する船なんかではとても来られないだろうと感じる。
オランダは宗教改革時代、一時はカトリックから迫害を受けたヨーロッパ中のプロテスタントの避難所となった観があり、アメリカ建国のメイフラワー号の清教徒もしばらくはロッテルダムで暮らした後アメリカへ出発したし、私が興味を持って研究しているアーミッシュもオランダからアメリカへ。そんな有名な人々以外にも大勢のプロテスタントの人達がロッテルダムからニューヨークのエリス島を目指した訳だが、その人たちを運んだオランダ・アメリカン・ラインの建物が川岸に見え、私には大感激の一瞬だった。
何故オランダに留まらなかったかといえば、オランダの生活がグータラを許さない厳しいものだったからだそうな、カトリックの堕落を許せなかった人たちも、オランダ人の厳しさからは尻尾を巻いて逃げたというわけ。

夕方のデルフト 船は続いてデルフトへ。到着後歩いて市内観光へ。私がデルフトで知っていることといえばブルーの焼き物だけだが、現在では焼き物はあまり盛んではないらしい。
オランダでも有数のデルフト大学は例の堤防工事で大変有名で、この町は大学生が非常に多いとの事、でも工学が専門なので町に女の子の姿が極端に少ないと嘆く声もあるとか。

町はオランダが東洋貿易・東インド会社で栄えた時代の面影を残して、歴史的建物が多く、リッチな雰囲気の中にも落着いたたたずまいが素晴らしい。
私達が歴史で学んだヨーロッパ人の東進・東インド会社は、イギリスが主のように覚えているが、初めてインドに到達したのはポルトガル人のバスコ・ダ・ガマ、次いでイギリス、オランダ、の順に東洋へ進出し、一時はフランス、デンマーク、スコットランド、ドイツ、スウェーデン、プロセインにも東インド会社が設立されていたという。
中でもオランダの東インド会社はイギリスに先立ってインドネシアなどで大発展し、一時は国内に14もの会社が乱立して胡椒、香料の貿易で母国に多大な利益をもたらしたが、仲間内の過当競争を避けるために、またイギリスやポルトガルに対抗するために、政治家の肝いりで統合されたのが、世界で最初の株式会社「連合東インド会社(V.O.C)」だという。
時代の最先端を行く近代的な会社組織のおかげで、17世紀中の100年間ほどは「黄金の世紀」と呼ばれるほど栄え、中でも先に訪問したミテルブルグなどは当時の稼ぎ頭となった町だそうだ。
東洋貿易時代の豪華な建物
関が原の闘いのあった1600年には大分県臼杵市の海岸にオランダ商船リーフデ号が漂着したことが知られており、2000年には日蘭修好400年の行事が行われたが、ごく初期の段階に既に東洋の果ての日本まで到着していたわけだ。
この時期の航海は勿論大変困難なもので、オランダ・ロッテルダムを500人以上で出発したものが、二年後の漂着時には生存者二十数人という有様、でもこの乗組員は徳川家康にも対面して、生き残りのオランダ商人ヤン・ヨーステンは江戸城の前に彼の名前を取って現在八重洲と呼ばれる広大な土地をもらい、経済顧問ともなった家康のお気に入りだ。
同じ船には何故かライバルだったはずのイギリスのウィリアム・アダムスも航海士として乗っており、後には三浦安針の名を貰って江戸幕府の顧問となっているがのが、何だか不思議。
いずれにしてもこの後、鎖国時代にはオランダは日本にとって唯一の外への窓口だったわけだし、明治維新後にも日本の文明開化にオランダの果たした役割は計り知れないものがあるとのこと、現在あまり日本人の注目を浴びていないことは、オランダ人にとっても残念なことかもしれない。

ちなみに「東インド」に対する「西インド」とはヨーロッパから西に進んで到達するアメリカ大陸方面のことで、コロンブスが西向き航路でインドへ到達しようとして出発、最初に到達した場所を今でも「西インド諸島」と呼んでいること、アメリカ原住民がインド人と同じく「インディアン」と呼ばれていたことは、このことに由来するわけで、オランダも一時は西インド方面にも沢山の植民地を持っており、南米のスリナムなどは30年ほど前までは、まだオランダの領土だったらしい。
世界中に限りなく進出している国であるから、次に行くライデンでは日本一有名なシーボルトのことを聞いてみたが、オランダではあまり知られていないようだった。
デルフトの町の奥へ進んで行くと、またまた地盤沈下のせいで遠目にも傾いている旧教会の塔が目に入る。
傾いた塔といえばイタリー・ピサの斜塔が有名だが、オランダには昨夜のドルドレヒト、ここデルフトのほかにも沢山ある。中に入ったり登ることも出来るこれらの塔が何故ピサの塔のように有名にならないのか、既に「オランダびいき」になってしまった私たちにとっては歯がゆい限りだが、「それは有名人が実験をしなかったからよ」の声あり。
塔の上からデルフトの町を見る なるほどガリレオが落下実験をしたのがピサの斜塔、でもここオランダにも小さな国とはとても思えない歴史の様々な面での先駆者が沢山あり、来る前に勉強した時には驚いたものだった。科学者も沢山あり、ガリレオの実験など、かすんでしまいそうだ。

旧教会を真近に見た後、市の中央へ向かう。市庁舎と、旧教会より新しいという理由で新教会と呼ばれる古い教会がある。ここで夕食時間を皆に告げ一応解散、私はガイドと観光案内所に行き、オランダ中の博物館・美術館に通用するというミュージアムカードを購入する。
塔の上からデルフトの町を見る
オランダではシニア料金が各所に設定されているが、年齢は60歳以上、65歳以上など様々、ミュージアムカードは55歳以上がシニアで安く、私たちのグループでは15人がシニアカードと知って、私は改めて皆が元気なのにびっくり。
ガイドとここで別れて私は目の前の新教会へ。

塔があれば必ず登る主義の私は、旧教会は時間的に無理なようなので、お金を払って新教会の約380段を登る。
丸く固まっているドイツやベルギーの町と違って、頂上から見るデルフトの町はかなりの広がり、中心部の旧教会や真下の市庁舎をカメラに収めたが、後を誰も登ってこないので少々不安になって、鳩に攻撃されないうちに早々に下りる。結局私が登っている間に塔に入ったのは全部で5人、お疲れさん。小さなデルフトの町では何人かの同行メンバーがうろついているのにも会う。

月末が女王の誕生日とのことで、オレンジ家にちなんで街路樹やショウウィンドウには風船や街灯などオレンジ色の装飾が一杯。日本の天皇家でもシンボル・カラーでもあったら祝日が盛り上がるのにと思った。船へ戻る前に小さな跳ね橋を通過、道路における信号と同じように、至るところに跳ね橋がある。

Allure へ戻ると、すぐ隣にも同じような船が停泊している。川に沿って縦に並べると川岸が船で一杯になってしまうため、船は横に並べるとのことで、隣の船は Allure に横付けになっており、乗り降りには Allure の甲板を通るようになっている。犬たちも隣の船に遊びに行っているが、隣の船には犬はいないみたい。昨日ドルドレヒトでもすぐ近くにいた船だ。
よく見ると、私が船探しに四苦八苦していた時、Allure のすぐ後にFAX連絡があった会社の名前が自転車に書いてある。昨日の停泊地ではうちのガイドと向こうのガイドが抱き合わんばかりに挨拶していたが、聞いてみると彼らは同じは派遣会社に所属するサイクリング専門のガイドで、それぞれの船に配属されてサイクリング・ツアーに同行するのだそうで、船に所属しているわけではないそうな、それにしては我らがガイド、ビンフリートは、食事時など船の仕事をよく手伝うこと。船の中だから特別かもしれないがスキッパーのトンも、お勝手で何でもする。

後で船内に貼ってある写真を見たら、Allure 号自体、トンも加わって自分たちで建造したらしい。ホテル・バージと呼ばれるこの種の船は貨物船を改造したものと聞いてはいたが、住み心地のよさから信じられない面もあった。
写真には内部ががらんどうの Allure が映っており、貨物船からの進化状況がよく分かる。

夕刻になり Allure だけでなく隣の船の乗客も三々五々船に戻ってくる。興味もあって向こうの乗客にインタビュー、隣の船は私たちのようなグループ貸切ではなく募集もので、私が話した相手はアメリカ・ピッツバーグから夫婦で参加、去年参加した知人の話が良かったのでとのこと、アメリカではこのような形態の旅行の募集は結構あるとのことだった。
船内にはもう一組ニューヨークから来たアメリカ人の他、ドイツ、フランス人も含めて総勢24人とのこと、彼らとはこの先も何回もあちこちで出くわした所を見ると、コースはほとんど同じようなものらしいが、私たちのようにバスを使って遠出はしないので費用は観光地の入場料だけ、何たる経済旅行だ、これがオランダ特有の「質実剛健」「無駄なし」の真骨頂ということらしい。


現在船が停泊している所は、オランダの誇るフランドル派画家フェルメールの有名な作品「デルフトの遠景」が描かれた場所らしいと聞いて、一枚写真をパチリ。描かれた当時とは大分建造物が変わっているらしいが。
我らの船の仲間は、さっきの解散後は史跡も町の雰囲気もじっくり味わうことなく、買い物に奔走したらしく、骨董品の店の話で盛り上がり、別のグループはスーパーがあったとご機嫌。
船内の洗面台が小さく高いために使いにくかったと、スーパーで洗面器を買った人があり爆笑。他には駄菓子やら雑貨やら買った人があり、ブランド物の買い物とはまた違った楽しみらしい。

今日の夕食はイタリアン。こちらの甲板からは隣の船のキッチンが丸見えなので、隣は何かしらね、なんて話しながら楽しく、大量のスパゲッティを食べ尽くす。
食後、先程のミュージアム・カードを配る。カードの上に写真を置き、生年月日とサインを自署して、上からラミネート様のプラスチックを貼るだけだが、事前に皆にはパスポート大の写真を持参するよう伝えてあったにもかかわらず、一人が写真を忘れたとのことでガイドも困惑。奥さんの写真ではどうだろうかとか散々笑った後、パスポートのコピーがあることを思い出し、白黒が異様にはっきりしたコピーの写真を貼ることになり、指名手配のようなその写真を見てまた皆大笑い。

4月20日(火):隣の船は朝食後すぐ出発。私たちは朝食後まず歩いてデルフト焼の工場へ。
工場見学が有料なのでビックリ、オランダではこの後も工場見学で何度か入場料を取られた。後からあんなに買い物するのに。

昔栄えたデルフト焼も現在では工房が1,2軒残っているだけとかで、そのうち最古と称する店へ。
朝早かったので一番乗り。デルフト焼の由緒、この工場の由緒、製品の需要とそれに応じた製品の変遷(昔は瓦や壁タイルも作っていた)などの説明を受けた後に工程を見学、その後は売店へ。
昨日のキンデルダイクやデルフトの町中にもデルフト焼らしい製品は沢山売られていたが、本物を見てからとストップをかけてあったので、みな何を買おうかと必死。

裏に純正の印が付いているもの、というのがこの工場の売りで、店員の中には日本語の話せるオランダ人あり、抹茶茶碗や水差しと書かれたお茶道具もあってビックリ。それらや花瓶など大物は、免税の関係で送ったほうが安くなるものもあった。送る人が多いのだろう、ヨーロッパでは珍しく、免税、送料も含めた金額がすぐ出る手際の良さ。
小物としてはフェルメールの「デルフト遠景」を模した額付きのハガキ大のプレートが人気、もっと小さいものでは指ぬきが手軽で喜ばれたが、用途を全然知らない人もあった。欧米では現在では実際に使うよりコレクションアイテムとして人気があるようだ。
赤ちゃんの誕生日を入れたプレートを特注することも出来るらしいが、とにかく皆があまり買うので私はびっくり。
買っているうちにドンドンお客が増え日本人も大勢になり、知らない人の通訳までやらされる芋の子状態、うちのグループの買い物がやっと終わって外に出ると、ガイドが公衆電話で長電話中。コンセルトヘボーのことで、と言い訳していたが、こちらでは皆で love call だろうと噂。

船に戻ると先日のバスが待っていてまずゴーダへ。ゴーダはチーズで有名な場所だが、私たちは先ず聖ヤン教会へ。ここはオランダで一番縦が長い巨大な教会で、その沢山の窓に飾られたステンドグラスが有名だが、ガイドはサイクリング専門のため教会の内部などには詳しくなく、ガイドブックを読み上げ、訳す時に私が日本語のガイドブックからの知識で補足した。
カトリックでもプロテスタントでも、ガイドには聖書の知識が不可欠と痛感する。皆にどれだけわかったかは、また別問題だけれど。
オランダについては歴史も一応勉強してきたが、まだまだ不足でじれったい。

教会内部には立派なパイプオルガン。そういえばオランダはオルガンでも有名で、これも宗教事情によるものと後で知ることになる。皆でオルガンのCDを争って買う。

町にはワッフルの匂いが漂い、あまりおいしそうな香りに、皆にひとつづつ当るように売店で購入、歩きながら食べる。ガイドが払ってプレゼントと言うので、「高いワッフルになりますよ」と、後でチップが必要なことを皆に伝える。

ゴーダからハーグへの移動中にバスの車内でサンドイッチの昼食、ミテルブルグへ行った日もそうだったが、普通の日本型観光と違って、レストランで時間を浪費することが無く、また朝食がしっかりしていれば、熟年にはこの程度の軽い昼食の方が良いと皆喜んでいた。

ハーグはさすがに大都市で交通も渋滞、国際司法裁判所の前を通った時には、私がまだ幼い頃、日本の田中耕太郎という人がここの判事になって赴任したのがとても印象的だったと話したけれど、みな分かったかな?
司法裁判所の内部の壁にはデルフトの陶器が沢山使われていると今朝の工場で説明があったが、私たちは内部はパス。

ハーグではまずパノラマ・メスダグへ。
メスダグという人が描いた世界一大きな油絵で、キャンバスが円形になっているため真中に立って見るようになっているが、昔のハーグと海岸線の様子が描かれている絵に様々な工夫がしてあって、本当の景色のように見えるのがミソ。日本語の解説放送もあるということでガイドが頼みに言ったが、この時には他に日本人は見えなかった。
ここで隣の船の連中に再会、私達がバスで来たと言ったらビックリしていた彼らは、全行程自転車。

続いてミニチュア・シティのマドローダムへ。オランダ各都市の建物が小さくなって建てられており、昨日見た上下する鉄橋もあった。世界的に有名でハーグ近郊では一番の観光地だが、ミテルブルグで似たようなものを見てしまったので、みな時間が余ったみたい。
集合を待っている間に一人が公衆電話で日本に掛けると、次々と続いて良い時間つぶし。国際電話の掛け方は、特に公衆電話では最初にどれを押せば良いのかが難しいが、一人が成功すれば後は簡単。

再び町に戻ってマウリツハイス美術館へ。
変わった名前だが、これはオランダ建国の父ウィレム公の息子の名前とか、この人も総督として結構活躍したはずだが、ガイドからは「息子」と一言で片付けられて気の毒。
ここで初めてミュージアム・カードを使う。指名手配写真も無事パス。

内部には沢山の有名な絵があるが、中でも大物は二階と言われ行ってみると、これはヨーロッパ式の二階で、レンブラント、フェルメールなどの絵は日本で言う三階にあった。
絵画の大部分は景色と人物群像。カトリックの国では教会の内部を始め装飾と言えば素材を聖書に取ったものが大半で、それらの制作を依頼するのも金満の教会、君主が多かったわけだが、プロテスタント国のオランダでは、偶像崇拝に類するということでキリストやマリアの像が描かれることは無くなり、景色、静物、庶民の絵が主体となり、人物画も突出した金持ち以外は割り勘で依頼したために「群像」が多いとのこと、絵画の手法以外に政治・経済状況も芸術に大いに影響するということを目の当たりにする思いだ。
オランダで最も美しい建物の一つと言われる美術館は、日本のように最新式のキッチリしたコンクリート造りではなく、人が多いのでワサワサして床は足音がちょっと耳障りな感じだったが、事務的でない何だか暖かい感じの親しみやすい建物。意外に小さい中に豪華な絵画が沢山、手の届く所に架けられており、こういう展示の仕方なら見る人も絵に親しめるだろうなと、日本の隔離されたような展示法と較べて羨ましく思った。

美術館の隣はオランダ政府の中枢部、首相の執務室もあり、彼が在室の時には愛用の自転車が外に置いてあるとのこと、本当かしら、今、自転車が無いのは、彼がもう帰宅したからとガイドは言うのだが。
最後にビネンホフを見る。隣接の建物はかつてナポレオンに占領されていたことがあるとのことで、建物には今もフランスの紋章などが残っている。この辺りはフランスから馬や徒歩?でも充分移動できる距離であることを実感する。

船はずでにライデンに停泊中、隣にはまた昨日の船が。この種の船が停泊する所はだいたい限られていることもあるが、ガイドも船長もあちらとは顔なじみのようで、いつも並ぶらしい。
またまた隣のキッチンも気になるが、本日の私たちの夕食はフランス風か、テリーヌ、タラのフライにまた野菜が一杯、最後に本場オランダのチョコを使ったカスタード・チョコが出て、またまた大騒ぎ。おいしかった。
美術館の隣はオランダ政府の中枢部、首相の執務室もあり、彼が在室の時には愛用の自転車が外に置いてあるとのこと、本当かしら、今、自転車が無いのは、彼がもう帰宅したからとガイドは言うのだが。
最後にビネンホフを見る。隣接の建物はかつてナポレオンに占領されていたことがあるとのことで、建物には今もフランスの紋章などが残っている。この辺りはフランスから馬や徒歩?でも充分移動できる距離であることを実感する。

船はずでにライデンに停泊中、隣にはまた昨日の船が。この種の船が停泊する所はだいたい限られていることもあるが、ガイドも船長もあちらとは顔なじみのようで、いつも並ぶらしい。
またまた隣のキッチンも気になるが、本日の私たちの夕食はフランス風か、テリーヌ、タラのフライにまた野菜が一杯、最後に本場オランダのチョコを使ったカスタード・チョコが出て、またまた大騒ぎ。おいしかった。

夕食後にはライデン市内を観光。私がライデンについて知っていたことと言えばシーボルトのことくらい、日本から様々な情報をヨーロッパに伝えた人として本国でも有名人かと思ったが、ガイドは名前も知らなかった。実はシーボルトはドイツ人なのよね。
シーボルトは日本の地図や機密を盗んだとして最後には国外追放になったのだが、彼と長崎の女性との間に生まれた娘は日本最初の女医、明治時代に入ってからは彼のオランダ産の二人の息子が来日し、東洋の田舎・日本の政治面での西欧化に最大の貢献をしたとして、日本では忘れることの出来ないファミリーだが、ここオランダへ来てみて、列強のせめぎ合う西ヨーロッパで、国としての独立を勝ち取ったしたたかさ、プロテスタントの拠点としての精神的な強さ、東西インド会社を興して世界中に進出していった進取の気性などを知ると、シーボルト一家も外国で活躍した大勢の一流人の一人に過ぎないのだなあと、オランダ人の世界の広さを実感する思いだった。
ライデン市内ではライン川が町の中心部で二股に分かれており、水辺にはレストランが一杯。こんな所をライン川が流れているのかとびっくり、これならドイツとの交流も簡単だと改めて思う。
美しい市庁舎、聖ピータース寺院、聖パンクラス教会などの夜景を見た後、小高い丘の上にある昔の保塁跡へ。
頂上には昔の要塞跡が残っており、円形の石積みや階段は現在では野外劇場として使われているとのこと。市内が一望できるこんな所で演奏会が出来たらさぞ気持ちが良いことだろう。
さすがに大都会とあって遠景には大きな近代的ビルも見えるが、旧市街を見渡すと先程見た市庁舎や教会の明かりが点々と美しい。
丘をおりて帰路、老人アパート群とも言える住宅街へ。船旅中の夜間徒歩観光では何度かこの種の住宅地へ行ったが、オランダには老齢に達した人々が一人一人住むアパートのような長屋のような住宅が沢山あり、その起源は、金持ちが自分の来世の平安を願って資金を出したことだという。
ポルトガルのバスコ・ダ・ガマによって東洋への航路が発見されて以来、ヨーロッパの国々は胡椒やナツメグなどの香料を求めて東洋貿易に進出したが、その中でも有名なのがオランダとイギリスの東インド会社で、時代的にはまずオランダが優位に立った。
オランダでは海沿いの14の都市が東インド会社に資金を出し合って貿易に乗り出し、信じられないような繁栄を謳歌した時代、あまりに儲けすぎた人達が貧しい人たちへの施しで天国での安寧を買おうとしたものだが、その証拠にとガイドが指し示す住宅街の門には、寄付者の名前がどこでも大きく掘り込まれていた。神様に見てもらうためだという。
その後には仲間と身内の老後のために、商業組合であるギルドが設けた住宅や、教会が運営するものなども登場したそうで、教会が運営するものは当然のことながら建物全体が男女別になっている。
別の日、教会の老人アパートに入り込み見ていた私たちにガイドが、「おかしい、女しか居ないはずなのに男が居る」と憤慨、中が全部見えるのでホント悪いことは出来ない。

4月21日(水):起きると同時に船が動き出す。来る前、小さな船なので走行中はエンジンの音が気になるだろうと心配していた人もあったが、大体人が寝ている間は走らないみたい。7時には皆が起きているだろうとのことで出発したらしい。
両岸にはチューリップ畑が広がり、はるかに風車、近くには水鳥が泳ぎ、皆は大喜び。夜明け前は大雨だったらしく甲板は濡れていたが、殆どの人が出てきて写真タイム、でもこの広さはとても一枚に収まらない。
チューリップの帯 チューリップの帯
食事が終わるころにはリッセ着。4人は徒歩で、私達は自転車でキューケンホフへ出発。
自転車で30分くらいの距離、途中広大なチューリップ畑のそばを通り、またまた写真タイム、ガイドはその間に徒歩の連中を見にと忙しい。
集合時間を決めてキューケンホフの入り口で解散。

去年の今ごろに来た人はチューリップが少なかったと言っていたが、その年の気候にも関係あるのだろうか、私達は丁度良い時期に来たみたい、園内のチューリップ以外の様々な花もほぼ満開。到着が早かったので最初はすいていたが、時間が経つにつれてガヤガヤ雑踏のようになる。日本人が多いと聞いていたが案外少なく、アメリカ人の他はやはりドイツ語、フランス語が耳につく、近いのだもの。広いので別の入り口から入った徒歩組とは会えなかった人達もあり。
キューケンホフは1999年が開園50周年とかで意外と新しいのだと知る。記念の年が例年と違うのは、いつもは春だあけ開園なのが夏まで開けていたことぐらい?

キューケンホフ公園はいつまでいても見飽きない美しさだが、そろそろ切り上げて入り口に集合、自転車の私達は良いが徒歩組は帰路、船が停泊しているハーレムまでバスを二回乗り換えなければならず、4人とも英語が出来ず一人だけがフランス語というので、ガイドは説明に躍起。

オランダでは英語は割合に早い時期から教えられているとのことで、旅行中に行き合った誰もが英語OKだった。と言っても短い旅行中に触れ合った旅行業関係の人のこと、中には不自由な人も勿論あることだろう。中学に入るとドイツ語、フランス語も始まるそうで、それは日帰り圏内に両国があるのだから当然だろうけれど、我らのクルーも全員フランス語もOKだった。でも誰もが上手とはいかず、またこちらも何でも解るというわけにはいかないので、バスの乗り換えには随分心配した。更に、行く先が住所のあるホテルではなく、川岸に停泊している「流浪」の小さな船なので、ガイドは心配したことと思う。何しろ、もし行方不明になったら探しようがないのだから。
船が停泊している場所の地図、路線バスの運転手たちに見せるためにオランダ語で書いた説明書、ガイドの携帯番号、船の移動電話番号などを持たせて4人をバスに乗せに行った。

最初に乗るバスの運転手にはガイドが直接説明し、その運転手から乗り換えの案内を貰ったらしいが、船には無事帰着していた。ガイドが彼らを送りに行っている間に見ていたら、私達が集合した自家用車・自転車用駐車場には、続々と人々が入って来る。私達は午前中で良かった。

キューケンホフの周りは典型的なオランダの景色で、道の両側には背の高い街路樹、その外側はチューリップ畑または牧場で、馬・羊が群れている中にかなり大きな農家の建物、その外側は森林という具合、その中を2時間ほど自転車で走ってハーレムの船へ戻る。
途中チューリップ畑の真ん中、川岸にあるベンチで持参のサンドイッチの昼食。流れる音も聞こえないような静かな川の流れには、幾種類もの水鳥が泳ぎ、その中のいくつかは卵を温めているらしく、ベンチで騒ぐ私たちを威嚇するように鋭い声を上げる。
オランダの特徴という広い空の下、絵の具を刷いたようなチューリップの色彩の中で食べる昼食は、レストランの何倍も美味しかった。
食事中に、制服の警官が普通の自動車に乗って徐行通過。ガイドによれば覆面パトカーによる不法労働者の取締りだろうとのこと。
チューリップの植付けには機械が採用されているが、花の摘み取りは全部人力、見かけによらない重労働の上に一時に作業しなければならないので、外国人労働者をこの時期だけ不法に雇う農家が多いそうだ。
自転車の上で少々お尻が痛くなった頃、ハーレムの船へ到着、徒歩組は先に着いていた。私達は景色の良い畑の中で食事したけれどあなた達は何処で昼食を食べたの?と聞くと、バスに乗ったのが既に12時頃だったので、最初のバスで食べ始めたら、すぐに降りろと言われて困った・・・とのこと、でも自力で船に戻れたので大満足の様子だった。

船中でお茶とクッキーの後、徒歩でハーレム市内観光へ。聖バホ教会にも有名なパイプオルガンがあるが、ちょうど誰かが練習をしていて、上手なのか下手なのかは分からないが、音色を楽しむことが出来た。ガイドは内部のことは詳しくないとかで、あるはずの画家ハルスの墓は見つからず。教会の床石はほとんどが墓の蓋になっており、その上を踏んで歩くのは私たちには相当抵抗があるが、彼らにとっては踏まれるのが名誉なことだ、、とガイドは平気。
この教会も壁材の節約で、沢山の建物が寄りかかって建てられている。

続いてハルス美術館へ。先日来ガイドが何度も説明してきた、養老院の一つの建物を利用したもので、沢山の絵画の他に、梯子で登って見るほどの特大ドールハウスが有名らしい。また銀細工もこのあたりの特産らしく、骨董品の食器類が展示されており、売店にも銀製品が置かれていた。

6時半夕食ということでハルス美術館で解散、雨が降り出したので早く船に帰った人が多かった。
女王の誕生日が近いということで、この町もオレンジと白の風船で飾りつけがされており、聖バホ教会の周りには移動遊園地も。女王自身は誕生日には毎年国内のどこかの町へ出かけられ、そこの市民と一日を過ごされるとのことで、去年はあそこだった、今年はどこだろうとガイドが言うのを聞いて、日本の天皇誕生日とは随分祝い方が違うなと感じた。

明日は今回の旅で一番長い行程、行く前に説明がしたいと、夕食後ガイドがダイニングの奥のドアに地図を貼り出す。そのドアはクルーの私室や物置に通じる勝手口とも言えるもので、私たち乗客は使わないので安心して貼ったその時、ダイニングの窓の外を通る男性の足が見え、全員が注目の中、地図が貼ってあるドアの裏へ。
皆の大爆笑の中、訪ねて来た彼こそ、私が何ヶ月も毎日のようにFAXのやり取りを交わした Jan。彼のオフィスはここハーレムとアムステルダムの中間にあり、仕事が終わった後、船長との打ち合わせを兼ねて東洋からの珍客の顔を見に来たというわけ。日本からの問い合わせ、注文は私が最初ということで、随分期待されているみたい、私も訊ねてみたいと思っていたことを色々聞く。Allure も、貸切のほか、募集物もやっているとのこと、また彼の会社は5人のスタッフで年間約400隻のボートの手配をしているとのこと。
ガイドが皆に明日の行程を説明している間にこんな話をし、Jan を残して私達は今夜もまた市内観光へ。
老人ホーム巡りというところで、単なる金持ちが建てた建物以外に、自分たちや未亡人のためにギルドが建てた物、ビール醸造所が建てた物、また修道院に付属する物など、新旧入り乱れてあちこちに建っている。鍵が掛かっていないからとガイドがジャンジャン中庭に入ってしまうので、我々はビクビク。オランダ独特の磨いたガラスにカーテンも掛かっていないところもあり、中はここも丸見え。
私たちには恵まれた施設に見えるこのシステムも、勤勉なオランダ人に取っては、ただ入っているだけの人のことが気に入らないこともあり、弱者と怠け者の区別がつかないといって揉める場所もあるとのこと、そんなポスターも見られた。

船に戻ってみると Jan がまだ居て、皆が部屋に引き取った後、クルーも交えて雑談。みんなのペットとなった二匹の犬の話やら、何故裏階段の片足が無いのか、色々なガイドの話などでも盛り上がる。
旅だけでなく、船上パーティーのようなこともやっているらしい。日本からは今まで問い合わせも無かったということで、このような旅をどうして知ったかとか、思いついた私自身についても随分興味津々だった様子、観光の時間配分、スケジュールの決め方や問い合わせの出し方一つでも、私の腕を判断する材料にされているのだと実感。
今回のお客については、お行儀が良いので概ね満足の様子、今回の人たちは私が見ても上等の部類に入るけれど、これがまた日本人客全体の印象になるのかと思うと恐ろしい。特に朝食の食べ方、ハムやチーズを山ほど載せたパンやら、いつも空になってしまう果物の籠、昼のサンドイッチへの贅沢な材料の取り方は、後で聞いたオランダ人の堅実な生活振りとは大分違ったので、ずっと後になって、彼らがどう思ったかちょっと心配になった。
またガイドは日本人旅行者の特徴が勉強できたと言うが、すぐ土産物屋に入ってしまう、入るとなかなか出てこない、沢山買う、写真ばかり撮っているなどか、ハハハ。
私からは、洗面台が高いだけでなく小さいので不自由して、洗面器を買った人があると言ったら、生活習慣の違いと言われた。彼らは朝の洗面もシャワーでしてしまうらしい。

また、自転車のサイズがやはり問題になる。彼らに取っても私たちの短足は意外だったらしい。私のほうから全員の身長は連絡してあったが、次回からは「股下」を連絡しなければと笑いながら話す。次回は車輪の小さい組み立て自転車はどうか、とか日本の自転車でどうかと提案したが、これは日本からの需要が多ければ自然に解決することと思われる。ハルス美術館で会った日本人ガイドから聞いた、自分の自転車持参のグループの話もしておいたが、荷物の多い人達には難しいかもしれない。明日は距離が長いので私は先に失礼して部屋へ。

4月22日(木):今日は大堤防を越えて、オランダ北東部へ。
朝食時、早くもバスがやってきて運転手は船内で一服、ガイドといい運転手といい、皆このような船の旅のエキスパートばかりだ。連絡が密で時間が正確、その割には電話をしているところなどは見た事が無い。バスの車内で携帯電話にかじりついていることの多い日本人ガイドに較べて、スマートに感じられる。
今日の予定としては、立ち寄りたい都市名を予めFAXで知らせてあったが、とても全部立ち寄れる訳はなし、また彼らから見ればダブっているところもあるだろうということで、お任せとしてあった。ただ、ガイドブックによれば、デルフトではあまり陶器は期待出来ないということだったので、新興の陶器の町マッカムを是非、ということと、トールペイントの好きな人がいるということで、ヒンデローペンというリクエストが日本を出発直前になって出ていたので、ガイドにそれは伝え、昨夜になってコースの確認をした。
まず北へ向かいアルクマールへ。ここもチーズで有名な町だが、今日は何の行事も無し。かつて栄えた時期の名残とかで、チーズ計量所の建物の立派なこと。オランダでは建国の父ウィレムに同調して立ち上がったいくつかの町、東インド会社として栄えた町など、歴史によって町々には様々な繁栄の跡が見られ、歴史の好きな私にはこたえられない。
続いて再度北上して、いよいよ大堤防へ。ここは先日見た南西部の堤防とは違い、ずっと前から堤防工事・干拓が計画され、そのため1953年には大災害を免れた所だ。堤防上が高速道路になっており、途中にはこの計画をした人の像や展望台が設けてあるが、風がとても強く、早々に退散。オランダは土地が低いこともあって風が強く、こんなところも風車が発達した理由の一つらしい。
チーズ計量所
風が強くてゆっくり見られなかったが、展望台には小さくて愛想の悪い土産物屋が一つと、下の階にはレストラン。ここにたった一ヶ所しかないトイレが、このレストランに入らないと行かれないので中に入ったが、結構人が入って食事しているのでびっくり。外海でなく、締め切った内側を見ながら食事が出来る。
先日の南西部の堤防は災害防止が目的のため、貿易港であるロッテルダム、アントワープへの入り口を開けて作られており、波の静かな日には水門のほとんどが開けられ、堤防の内側も海水のまま保たれているということだったが、干拓が目的のこちらは、広大な海を先ず淡水化してから締め切ろうと言うことで、堤防の一部は、中の水が出て行くように常に開けてある。ヨーロッパの内陸側から内海へ流れ込む、沢山の川の淡水で堤防の内側を徐々に淡水化する計画というが、内海の大きいこと、オランダの全面積の 1/3 くらいありそう。それが淡水になるまで、陸方向からの川水を海へ向かって流し続けるというのだから、100年単位の気の遠くなるような遠大な計画。中の水はドンドン外へ出して、海からの塩水は中に入らないようにと、水門には水で出来た壁が設置されているとのことだが、こういう長い視野で物事を計画し、途中で方針を変更することなく実行していかれる、オランダ人の計画性に改めて感嘆。

さていよいよ堤防の向こう側へ。サイクリング専門のガイドは、ここまで来ると道はよく分からないらしく、運転手もマッカム、ヒンデローペンあたりはあまりなじみが無いらしく、しかも人家が少なく道も細いので、何度か迷って進む。
途中は広々とした畑に家畜が一杯、子羊が親にしっかりくっついているのが愛らしい。豚や野ウサギもいる。私が「ラビット」と言ったらガイドがあれは「ヘア」だ、と言うので、ラビット(飼いウサギ)とヘア(野ウサギ)の区別についてしばらく論争。日本には二つの単語に対する言葉として共通の「うさぎ」しか無いし、私には区別がつかないと言ったら、「日本には野ウサギは居ないのか?」と聞かれ、まず私達が目にする機会は無いと言ったらびっくり、同じくカエルについても、日本ではガマも青ガエルも同じ言葉と教えてやった。
この会話だけでなく私が外国へ行って驚くことの一つが、日本の生活に於ける動植物のバラエティーの少なさ。植物や動物の種類がどう違うのか詳しくは分からないし、日本でもそれなりの自然には恵まれている気がするが、例えば飛んでいる鳥の種類、水辺にいる鳥の種類などは、日本の人家近くではごくごく限られてしまう。こちらでは大都会、人里のすぐ近くにキジまでが飛んでいるのだから。
アメリカなどでもペリカンがあちこちに飛んでいたり、大都会のすぐ近くでアザラシが見られたりするのが驚きだった。日本では例えば食べる肉の種類だって牛・豚・鶏以外は滅多なことでは手に入らない。鶏類だけでもニワトリ、鴨、アヒル、キジ、ウズラ、鳩!、と外国では選択肢が多いといつも思う。

そんな論議をしている内にまずマッカムへ到着。
デルフト焼よりも色が多く使われているのが特徴のようだが、何だか有田焼によく似ている。ヨーロッパの焼き物はみんな、日本や中国の陶器の影響を多かれ少なかれ受けているとのことだ。工房も見学したが、作り方はデルフトとほぼ同じ、この先もう少し行くと、地下は泥炭層になるとのことだが、そのすぐそばなので粘土には大変恵まれているようだ。皆が期待していた土臭い手作りという印象は薄く、少々がっかり、私はブルー一色のデルフトが好きだが、でも結構いい値だったマッカム焼きも、みんな沢山買ったみたい。

続いてまたバスが散々迷ってヒンデローペンへ。今は内海になってしまったこの町も、昔は遠洋へ出かける漁村で、手作り家具のそもそもの起こりは、猟師たちが漁業で訪れた北欧の家具を持ち帰り、冬のヒマな時の手慰みに真似をして作っていたものが起源とのこと、長い間オランダ人の間でもすっかり忘れられていたものが、最近のトールペイント・ブームに乗って復活し、その賑わいにオランダ人自身が驚いているところだという。近くへ行くまで気が付かなかったが、細い道を通って、観光バスがなるほどかなり来ている。町外れにバス駐車場まである。でも町はとても小さくて静かで可愛い。
駐車場の近くにはトールペイント博物館、残念ながら時間が無くて入った人はいなかった。その先が教会、例によってプロテスタントで、今日は何やら中で礼拝が行われている。私たちのガイドは大抵のところへは平気で入ってしまう人だが、今回はパス。
数日前に聞いたのだが、オランダでもフリースランドと呼ばれる大堤防のこちらと向こうでは、地質だけでなく民族、文化も違うらしい。デンマークなど北の方と同じフリース族とかいう人たちで、固有の文化伝統を守って、言葉もオランダ語の他にフリース語というのを話すらしい。標識などにも両言語が記されているとのことだったが、方角を見定めるのに必死で、それは見損なった。ベルギーではフランス語とオランダ語の併記が普通だったので、私の方が併記に慣れて注目しなかったのかもしれない。
ベルギーと同じく独立運動まであるそうだ。方言とはまた違う、古い古い歴史に根ざすこのような言語、民族の違いは、単一言語、単一民族の私たち日本人には到底理解できないことだが、ガイドもこちらへきてからは何だかいつもの図々しさが薄れたみたい、教会へ入れないだけでなく、その原因も言わず。

なんとも可愛い町をしばらく行くと港に出る。ちょっと寂れたような港でとても雰囲気があるわね〜なんて話していると、目の前の水鳥がパッと魚を捕まえた。イワシのような魚で、鳥にとっては大きすぎるのではと皆で余計な心配をしていたら、あっという間に鵜呑みにしてしまった。
この港のあたりは本当にステキなところ。オランダでは船はレジャー目的もあるが、実際に漁業に使うことも多く、それらの船はレジャー用のようにお金を掛けるわけではなく、帆もこの辺りでは、アジアで採れるジュートのような素材で焦げ茶色が特徴だとか、それがこの港の鄙びた雰囲気に本当にマッチしていて、独特の雰囲気をかもし出している。
メンバーの一人が本で見たというトールペイントの工房は確かこの辺りとガイドがウロウロ、周りにも沢山のトール製品が飾ってある店があり、もうどこでも良いじゃない、なんて言っていると、あった、と言う。

本には工房見学は予約制と書いてあった。何日か前にそれをガイドに見せてあったから、予約したのかしなかったのかそれは分からないが、ガイドはここでは例の如くドンドン室内に入っていく。中では我々の人数を見て、二グループでと言う。白木の家具の組み立てからやっているのはここだけという、その作業所は大きかったけれど、色を塗っている屋根裏部屋のようなところは、なるほど階段は小さくて急で、部屋は非常に狭い。人数の半分は、製品が展示してある表通りに面した部屋で待っていてもらったが、面倒と思ったかその半分くらいは外に出て、勝手に他所で買い物、後で見せてもらったら結構面白い物を買っていた。 工房内の作品
残った半分の人には工房一家の長男が、北欧からきたという由来や自分のところだけが組み立てからやっているなどという説明をした後、まず組み立て工場へ。ここではパパが箪笥(タンス)のような物を組み立てていた。パパは日本に行ったことがあるという長男の説明に、パパが「こんにちは」とか何とか、ひとこと日本語。なんだと思ったら、長崎のハウステンボスへ民族舞踊を見せに、ママや近所の人達と行ったらしい。その時トールペイントは披露しなかったのかしら、もったいない。
周りには他にも椅子、机などの大物から状差しなどの小物まで、様々な物が白木のまま置いてある。部屋の脇の壊れそうな階段を恐る恐る上がると、まさに屋根裏部屋という感じのところで、今度は弟が色付け中。乾かすのに時間がかかるらしく、そばの製品を欲しいと言って触ったら、乾いていないのにと大慌て。アクリル塗料ですぐ乾くアメリカのトール・ペイントとは、塗料が違うらしい。
作品
ヒートホールン 最初の場所に戻ってそれぞれ買うものを物色したが、観光客っていつ来るんだろう、今はまだシーズンではないとて製品が少なく、皆不満そう。注文という手もあると言われたが、製品を良く見ると、時に塗りムラがあったり塗り残しがあったりで、やはり現物を見ないと日本人には変えないという感じ。手作りの良さでもあり欠点でもあるのだが。
結局大物を除いて、買えるものは全部買ってしまったみたい。店員らしき兄さんは一人しかいないので、円だのドルだので払うのを換算したり、変わった形のものを包んだり、その紙がフリースランドの旗のデザインだと説明すると包み直してもらう人ありで、時間のかかること、店にいる間にガイドと約束の時間が過ぎてしまう。
ヒートホールン
全員が終わるのを待って走ってバスへ。途中の家もきれいなだけでなく本当に可愛い、またいつか是非きて見たいものだと思った。でも余りに綺麗でひと気が無くて、誰も住んでいないんじゃないかしらとも思う。われわれのような騒がしいガサツは、ホームステイも無理かもしれない。

さて遅くなったが次は、今日の最初からの目的地ヒートホールンへ。泥炭を掘った溝に水がたまり、今では北のベニスと言われる景勝地。オランダでもこの地域の地下は泥炭層で、それを掘ったために地盤沈下したところへは水が溜まり、周りには沢山の湖がある。

ヒートホールン ヒートホールンは余りにも遠いので、最初はアムステルダムでの自由行動の日に、行きたい人だけに言ってもらおうと思ったが、交通の便も大層悪いので、地理に暗く言葉も自由でない人が日帰りで行くには不安だろうと(帰って来なければ私自身が困るので)今回のバス旅行に入れたものだが、来て本当に良かった、静かで美しい、さすがにベニスを標榜するだけのことはある。清潔そうな分、私は本場よりこちらが好きだ。芸術的な美しさに惹かれて画家や芸能人の住人が多いとのこと、説明を聞いている私たちの目の前を小船が一艘進んで行く。ガイドによれば買い物に行くのだそう、村の外回り以外には歩く道は無いらしい。どの家も庭の手入れが充分に行き届いているのも、美しさの元か、茅葺の屋根などが大切に残されている。
帰り道は内海アイセル湖の南岸を通る。ここには風車公園と呼ばれる地帯があって、沢山の風車が並んでいるが、これらは全部新型、つまり日本でも最近見られるようになったモダンな形のもので、私達はちょっとガッカリ。でも旧式の風車は殆どが木造で手入れは大変、火事になることもあるし、何より新型に較べれば効率が悪いとのこと、現代では仕方ないか。でも新型風車の並んでいる岸の堤防は芝生で覆われ、持ち主は誰やら柵の中には沢山の羊が放し飼いになっている。子羊も沢山。緑の広大な土手に白い風車が回り、その足元には白い羊が点々、なかなか良い景色。
ところで日本人独特の買い物のお陰で、大分予定より遅くなったらしい、岸が尽きてアムステルダムの近くで渋滞にはまった頃から、ガイドが俄然焦り始めた。私たちには朝食8時、夕食は6時半と軽く言ったが、この時間は契約でかなり厳しく決まっているらしい。既に携帯で30分遅らせるよう頼んだとのことだが、それ以上は遅らせられないという。多分オードブルと一緒にメイン料理が出てしまうのだろうと思ったが、日本人にとってそんなこと大したことではないのに。少しくらい冷たくても、本当の日本人の食事なんて短い人は30分くらいなんだから、終わる時間は大丈夫よ、と喉まで言葉がでかかったが黙って前を見る。
退社時間と重なって大混雑のアムステルダムを走り抜けることになるのだから大変。必死の運転で何とか7時ちょっと過ぎには船に到着、食事も別に冷えているわけで無し、思ったとおり我々の食事は素早いので、食事の終了時間はあまり変わらなかった。
明日が最終の夜になり、しかも大多数の人がコンセルトヘボーのコンサートへ行くことになったので、食後ヨシから明日の夕食について話がある。最終日の夕食にはご馳走を出しパーティーをするのが通例らしく、コンサートに決めて夕食を慌しくしてしまって申し訳なかったけれど、アムスの夜も私たちにはたった一度だし。
コンサートへ行く人のために夕食時間は早めにする、船から出すご馳走の他に、何か日本食も出して欲しいとヨシからは依頼された。そういえばメンバーの中には料理の得意な人もいると言ってあったのに、遊んでばかりで料理の手伝いなんてする時間が無かった。
また、明日は風車で有名なザーンセスカンスへ行くのだけれど、皆が自転車で出発した後、ヨシは船で買出しに行き、それから私たちとザーンセスカンスで合流するとのこと、それを聞いたら買い物の様子を見に行きたくなったか、何人かが「明日は自転車はやめる」と言い出した。
明日はアムステルダムの日本側旅行手配会社にも電話をするので、アムステルダムに着いてからの予定についても皆に確認する。買う人はいないだろうと予定外にしていたダイヤモンド工場を訪問したいと言う人が案外沢山あり、跳ね橋は沢山見たからと中止して、変わりに寄る事にする。

昨日ガイドから内緒話で、「毎週木曜日に、ハーレムのボランティアがストリートオルガンのコンサートをするが、行く先を言わないでサプライズにしておこう」と持ちかけられていた。バスの中では弱気になったガイドが今晩は止めようと言っていたが、一部の人にそれとなく聞いてみたところ、やはり行きたいと言う。食事も時間どおりに終わったことだしと、出掛けることになった。船の留めてある川に沿って10分ほど歩く。町中より更に犬の糞が多い。家の内外を神経質なほど磨き上げているイオランダ人なのに、何故犬の糞だけが放置されているのか、本当に不思議。そういえばドイツもベルギーもフランス、イタリアも、足下に注意せずには歩けない、昔ペストが流行ったのも不思議でない、なんて時代がかったことを思いながら、今回の旅では踏んだ人がそれでも少なかったなあと思う。
オルガンがしまってあるのは大きな倉庫。道は川に沿って真っ直ぐなので、帰りたくなったら自由ということにして中へ。ガランとした倉庫内にはストリートオルガンが10台くらいあったか、その脇に小さな事務所があり、数人の男女が何やら相談?中。彼らが一週間に一度集まる日にストリートオルガンを演奏するのだそうで、保守・点検する代わりに、勝手に使っても良いということになっているらしい。
事務所の壁には演奏旅行?のスケジュールらしいものが貼り付けてある。ボランティアでやっているので無料だが、売っている飲み物やCDを買うか、いくらかチップを上げてくれるとなお良いと、ガイドの説明。
入り口に近いものから、置いてあるオルガン全部の演奏が始まる。本来は路上で演奏するものなので、室内で聴くとちょっと音が大きい。それぞれのオルガンはデザインだけでなく音色も様々、聴いている私たちの好みも様々だった。前面で人形が踊ったり、ライトが点滅したりするものもあり、曲が進むに連れて、裏では穴のあいたボール紙がバタンバタンと進んで行く。電動のものもあるが手回しのものは回すのが大変、汗だくになっていて、ボランティアも重労働だ。
演奏はオランダが有名で、この翌々日にはメンバーの何人かがアムステルダムで目撃しているが、製品は殆どがベルギー製で、アントワープなどの名前が前面に書かれている。
ストリート・オルガン

チップ代わりということで何人かは飲み物を注文、私は夕食後に飲んだばかりなので、CDを買うべくガラス・ケースを物色。ここに置いてあるオルガンのCDは少なく、私が気に入ったオルガンのも無くて残念だが、ガイドに選んでもらって一つ買う。
中央のオルガンは、どうやって倉庫から出すのかと思うほど大きく、オーケストラと呼ばれている。昔はやったダンス・ホールでは、毎晩フル・バンドを入れるのは大変な出費になるということで、この種の超大型ストリート・オルガンが使われたとのこと、なるほどということで我々もダンス、なかなかいいノリだ。対照的に、小さい手押し車型のものもあり、岡山県の倉敷市でも同様のものが毎年祭りの折りに登場するとのことで、メンバーの中には倉敷の人が大勢いるため、係員に説明する。
疲れたり退屈した何人かの人は一足先に会場を出て船へ戻ったが、真っ直ぐなはずの道に迷った人もあったらしい。最後まで残った人たちは、結構重労働だったが最後のオルガンの操作・手回しをさせてもらい、ボランティア事務所にあった正体不明の金色の箱がチップ入れと分かったところでお開き。チップを何処に置くのか分からず、卓の上に置いてあるプラスチックの容器に入れてしまった人もある。ドイツでもよく見るが、卓上のプラスチック容器、時に大きなコップのようであり、時には本当にゴミ箱の形をしているものがあるが、あれは食事のカスを入れる物だと言ったら大笑い。金色の箱がチップ入れとはしらなかったと、また大笑いしながら船へ。

4月23日(金):朝食の後、ザーンセスカンスへ向け自転車を駆って出発、残留組とは手を振って分かれたが、私たちもほとんど川に沿って走るので、船とは何度も遭遇、手を振ったり競争したり写真を撮ったりで忙しいこと。途中、船は水位を調整するドックも通過、ドックは跳ね橋も兼ねていて、船はそこでしばらく停止して待つ、それを私たちも自転車を停めて見守る。
停船中、ヨシが犬を連れて船外へ。他の船からも犬が下りるが日本のように喧嘩をする様子は見られないのが不思議。のんびりオシッコをしたり怪しげな格好でしゃがんだり、これでは、あそこはウッカリ歩けないねと、見ているこちらでは話した。
ドックを出た船に再び手を振って走り出し、しばらくは併走。川の岸沿いには船の家も沢山並んでいる。ここは相当大きな川だが、増水なんて無いのかしら。
跳ね橋の下を通る船。自転車が積んである しばらく行くと私たちはフェリーで川を横断することになり、Allure とはここでお別れ。フェリーは単純に向こう岸とこちら側を結ぶだけの、橋と同じ役目で、自転車・人間はタダ。橋の向こう側には一軒の小さな売店があり、アイスクリームを食べる。この先ずっとトイレは無いというガイドの話に、殆どの人が売店の裏のトイレへ。窓も電灯も無く、しかも密閉式の室内は真っ暗で何も見えず、最初の人はまさに手探り、その後の人たちは仕方なく、ドアを少し開けたまま用を足したとのこと、私はそんなことだろうと思っていたので行かなかった。いくらヨーロッパとは言え、田舎に行くとトイレは結構原始的で、椅子式だったのはまだ上等。
跳ね橋の下を通る船

川から離れて今度は家々の間をサイクリング。黒髪・短足集団は、ここでも注目を集め、大勢の人が笑いながら手を振る。丸見えのガラス窓の中で、目を大きく見開いて見つめている子供もある。
広大な畑の中にはバードウォッチング用の小屋があり、この辺りで見られる鳥が写真付きで解説してあったが、鳥は至る所に飛んでおり、わざわざ子屋に隠れて見なくてもいいのにね、と話し合った。この近辺は一度畑にすべく開墾したが、自然環境を著しく破壊したとの反省から、今では元の自然に戻そうと農耕は禁止されているとのこと、そんなこともあるんだ、と日本との違いに感心。
更に行くと風車の焼け跡。古い風車の大半は木造のため、火事の被害は相当あるらしい。風の吹く所に建てられているのだから当然ともいえるけれど、中の階段は急で狭いので、昔は結構焼死した人もあるのではないか。
再び町中に入ったところで私の自転車がパンク、こちらの自転車はパンクしないと聞いていたのに。修理のため町の中央の教会の前庭に自転車を停め、しばし休憩となる。ガイドは修理道具も持っていた! 
教会の横にはみなの大好きなスーパーがあり、歓声を上げて走り込む、何を買ったやら。私は明朝のミーティングポイントがバスやガイドに分かっているかどうか確認の電話をするため、テレカを買いにスーパーの隣の郵便局へ。小さな郵便局だけれど記念切手の類は無いのかと訊ねると、記念切手とも言えないけれど、きっと気に入るよ・・・と出されたのがチューリップのデザインのもの。キューケンホフ公園の郵便局にも無かったのに、と大喜びで2シート購入、後でみんなにも分けてあげよう。外の公衆電話でアムステルダムと話す。場所は連絡貰った場所ですねと、相手はいとも簡単に承知、やはり現地の人ならすぐ分かるのだなあと感心。さらに、出発前の打ち合わせではアムステルダム市内で跳ね橋を見たいと言ってあったが、既に跳ね橋は飽きるほど見たので、代わりにダイヤモンド工場へ行きたいと連絡する。
話している間にあたりが何やらザワザワして、教会の前にはロールスロイスが停まっているのが見える。電話を終えてボックスを出ると、教会からは結婚式の一行が出てくる。買い物が終わったみんなも集まって来て、例の如く一緒に写真を撮りたいと言う。私はこの伝で、まるで知らない結婚式と何度一緒に写真を撮ったことか、ハハハ。そばに立っている大きな男に一緒に写真を撮りたいと言うと、最初はビックリしていたが、修理を終わったガイドが来て口添えをしてくれ、快くOK。それからが大変、カップルの周りに我々の仲間が集まっては押し合いへし合い、それを見てオランダ人も一緒に写ろうと集まって来、何枚も写真を撮った。中でも傑作は、私たちのメンバーの若いパパが、赤ちゃんをオンブして自転車に乗っていた、そのままの姿で写真に入ったので、珍しい姿に驚いたみたい、彼だけを撮った人もあったらしい、今ごろは話のタネになっているだろう。最後には向こうのプロ・カメラマンも全員の写真を撮りだし、石畳に寝転がって撮ってみたりして大受け。こちらでは結婚式は市役所と教会との二本立て、金曜日の結婚式は何故か費用が余分にかかるとのこと。ここで、ガイドは独身、非プロテスタントと分かる、みんなの身上調査は厳しい。

にぎやかに別れて、我々は再び走り出す。ザーンセスカンスの直前は大きな土手になっていて、この辺りも花が一杯。土手を越えた向こうはかなり大きな川になっていて、渡る橋の上に日本人がチラホラ。橋の上からは風車が四つ並んでいるのが見える。キンデルダイクに較べて活気が感じられるのは、ここからでもひと気が感じられるせいか。
島のようになっている風車の地区に入ると、さすがに観光客がいっぱい。先日来のサイクリング・グループにまた会い、ガイドはまた向こうのガイドと投げキッスの挨拶。入り口近くのレストランの広場へ自転車を停め、時間を決めて解散。ガイドはそろそろ来るはずの Allure を探しに行く。
周りは今までの船旅で一番の賑わい、四つの風車の回りにオランダ中の見ものが全部並んでいる感じで、木靴工場、チーズ工場、焼き物屋などがあり、土産物屋、食べ物屋には人が一杯。ヒートホールン風の、水路に建つ家もある。店を冷やかしたりアイスを食べたりしているとガイドがやって来て、船は予定よりも遅く着いたので、船の人の観光時間を確保するために出発時間を遅らせると言う。置いてあった私の自転車は誰かが運んでくれたか、もう船内に置いたという。

それではと近くにあった風車を覗く。そばに個人旅行だという日本人カップルが来たので「私たちは船と自転車の旅行なの」と自慢すると、「その声に聞き覚えがある」とご主人、何と二年前にスイス山中の小さな喫茶店で、ひと時をご一緒したカップルだった。スイスの時の人もいるからと、お二人を船まで引っ張って行く。船は、こんなところにと驚くような風車群の真ん真中、観光船の波止場のそばに停まっており、観光を終わった仲間が三々五々戻ってくる。さすがに私達のような船で来た人はいないようだったが、こんなところに船を停めてもいいんだ。ご夫妻をスイスで一緒だった一人に引き合わせ一緒に写真を撮って偶然の再会を喜び合う。
偶然の再会
彼らと別れて船は一路、最終停泊地のアムステルダムへ向けて進行。この船とももう一晩限りかと少々センチにもなるが、沿岸の景色に様々な歓声、写真を撮りまくる。甲板では、自称本業は音楽家のガイドが、アコーディオンの演奏、知っている曲には我々のコーラスも入る。アムステルダムに近付くにつれて、さすがに建物が大きく、川幅も心なしか広くなる。今朝私たち自転車組と分かれてから、船は途中どこに寄ったのか、とにかく皆はヨシの買い物のお供でお店に行ったらしい。途中の小さな町では多分食糧しか買わないのだろうけれど、アムステルダムも近くなった今回は、食糧の他にあらゆる生活物資を大量に買い込んだという。その買い物の早いこと、おっとりした良家の奥様ばかりの日本人お供連中は、感心しきりだったらしい。

両岸の岸壁が高くなっていよいよアムステルダムが近いと実感される頃ガイドがやって来て、もしよければ着岸する前にアムステルダム近くに停泊している他の船に、借りていた「小型」自転車を返しながら行きたいと言う。信じられないことだけれど、やはり私たちが使った自転車は「小型」で「特別」なんだ、足が届かずにあんなに苦労したのに。

途中と言っても、船たちの停まっているところはアムステルダム中央駅からすぐの場所で、自転車を返した後 Allure も、そのすぐ近くへ停泊、後で地図を見たら、いつも来る船には決められた係留ポイントがあるらしい、地図上に船の名前が書いてあった。四時も過ぎており、今日は夜コンサートの上に豪華、早めの夕食なので、外出する人はいないのかと思っていたが、アッという間にほとんど全員が下船、町へ出て行ったしまった。ガイドもコンセルトヘボーの切符を取りに外出。私はもう一人のメンバーと、一皿の日本食の手伝いに残る。

先ほどの買い物の間に、船内残留組は台所も詳細に見学したとのこと、わずか三畳ほどの場所に、30人近くの料理が出来るよう全てがコンパクトに収められている。酢の物を作ろうということで、買ってきたサーモンと、日本の三倍はありそうなキュウリで準備する。また、旅の途中での食事を心配して、皆が様々に準備してきた日本食も提供されたので、フリーズドライのおにぎりを戻したり、レトルトご飯をおにぎりにしたり、フリーズドライの納豆の缶詰まであるのを戻したり。
クルーは途中の港やドックでも係員とは顔なじみで楽しそうに話していたが、割合長く滞在し、客の入替のために客がいない時間もあるアムステルダムのような大きな港ではリラックスするらしく、船には様々な訪問者。自転車を借りたお礼か、缶ビールなどを出してもてなしている。最後まで残っていた二人の客の内一人は、北九州に半年滞在したことがあるという若い女性だったが、おにぎり、納豆を準備している私たちを見て「納豆大好き!」と言う。珍しいね、と言いながら、元々量が少ないので、ほんの少しを分けてあげる。

「おいしい、この缶はオランダで買えるかしら」「残念、それは日本でも相当珍しいもので、私だって初めて見たのよ」なんて盛り上がっているのを見て、隣に座っていた男性が「食べたい」と言う。用心して納豆を二粒ほど渡すと、案の定「ウッ」としかめ面。次はおにぎりを包む海苔、彼女は「懐かしい」と歓声を上げながらパクリ、それを見て懲りない彼氏も手に取ったが、「これ、食べる物?」と一言、それでも口に入れたが感想は無し。彼には梅干は試さなかったが、後で Allure の三人のクルーに試したところ、酢の物はOK、梅干もマアマアだったが、やはり納豆が最悪評。オランダにはインドネシア料理がかなり出回っていて、アジアの香辛料にはあまり抵抗が無いようだが、納豆は格別みたい。

心配したが全員時間内に戻って来て、いつもより30分早く夕食開始。全部クルーにあげても良いと思っていた酢の物、おにぎり、納豆が、日本人の間でジャンジャン無くなっていくので、クルーの分は別皿で確保する。あと二、三日で日本なのに、何でそんなに日本食に夢中になるの? クルーに少しでも日本を体験させてあげようという「大人」の配慮は無いのかしらん。

船の今晩の主体は、インドネシア料理らしい。本当ならクルーも交えて遅くまで騒ぐのだろうと思うと、ちょっと残念。今日は昼頃から船に備え付けのアルバムが登場、乗船記念に何か書いてくれとのことで開けてみると、今までに乗った人たちの写真やメッセージが載っている。私たちよりは派手に騒いだ感じの写真を見ると、日本人はやはりお行儀が良すぎるのかなあと思ったり、言葉の壁がこんな所にも出るのかなあ、クルーとももっと話せば良かったかなあとか、色々反省も。みんな日本語で感想を書いて・・・thank you くらいは英語で書かなくちゃ。写真は後で送るとして、折り紙で鶴を折って貼り付ける。結局英語で書いたのは私を含め二人、もう一人はフランス語で書くと言うので協力。
食後いよいよコンサートに出発。先日来何度も一緒だった、ガイドの同僚の船も今晩はアムステルダムへ来ており、コンサートに行かない人は徒歩観光に連れて行ってくれると、あちらのガイドから親切な申し出があったが、疲れている人、自分たちで大丈夫な人達などなので辞退。コンサートに行く人達の一部は「どこにそんなステキなドレスを入れていたの?」と驚くような盛装、ハイヒールも登場したが、歩き出すとあちこちに名物?の犬の糞があって、少々ご機嫌斜め。帰りはタクシーだわ、なんていいながら、ノロノロ約10分かけてアムス中央駅へ。途中に、この辺り唯一の大きな目印、中華レストランの大きな建物、日本人客も多いとか。
駅近くにはパーキングメーターのような柱がたくさん立っている。これは公衆インターネットとかで、なるほど電話番号のようなものとテレビ画面のような物がついている。クレジットカードを入れて使うのだそうな。
アムステルダム中央駅は東京駅のモデルになったと言われているが、装飾に金などが使われ、東京駅よりは豪華な感じ。時計の他、同じような形で風向計が付いているのが珍しい。元々は海だったところに九千本近くの杭を海中に埋め込んで、駅のためだけに人工の島を二つ作り、その上に建てられた物だという。
駅からはトラムに乗り、コンセルトヘボーの会場へ。車中ではキップにチェックを入れなければならないのだけれど、ほとんどがコンサート行きですごく混んでいて身動きもならず、それを口実にガイドは行きも帰りもチェックを入れず、ガイドを入れて10人もが無賃乗車。混雑しているのでチェックはしない人が殆どだったのでは。駅からコンサート会場まではかなりの距離、会場の建物は半分古くて半分はガラス張りの近代建築という感じ、内部は古くて、椅子などは日本のどこよりも安直な感じだが、私の嫌いな変に気取った雰囲気が無くて好ましい。プログラムは全部オランダ語なので買えず、不満もあったあけれど、考えてみれば、日本のコンサート会場でも、英語のプログラムなんて用意してあるのは稀だもの。代わりに観光客用の無料のパンフレットのようなものを入手、今晩の出演者を知る。チャンという有名な女性中国人のバイオリニストが出演するのが目玉、それでいて、かぶりつきの席が\4,000未満というのは、スポンサーが付いているからと知る。スポンサーの名はプログラムに小さく記載されているだけで、会場のどこにも見られないので邪魔にもならず、良いシステムね、と皆で感激。明日のスポンサーはヤクルト、と思いがけず日本企業の名を発見して驚く。そういえば先日オランダのスーパーにヤクルト製品があったと、誰かが驚いていたっけ。外国ではしっかりスポンサーになっている日本企業があるのに、日本では最近不況のために「冠」コンサートだけでなく、企業が後押しする様々なイベントが中止になっていると聞いているので、何か変?と感じた。
開演近くなると、ほとんど満席になる。日本人の姿も見られる。ガイドの話では、今日直接来たのではキップの入手はかなり難しいとのこと、皆はどうやって手に入れたのだろう。
観客席はステージの後ろ側にもあり、ピアノ、チェンバロや打楽器の演奏者は客席に混じりそうな近さ。プログラムの中ほどにお目当てのチャンのバイオリン曲がある。チャンはバッチリ東洋人の顔だけれど、あの気迫に満ちた表情は、最近の日本人には決して見られないものではないかしら。ステージの真ん中、オーケストラメンバーの真ん中で、精神集中を図ってしばし無我の表情、演奏も迫力ものだった。演奏後はアンコールの拍手がしばらく鳴り止まず、こんなところは日本と似ているなあと思ったが、アンコール演奏は無し、そのまま休憩に入る。安いのでこれでお仕舞いかと帰ろうとしたが、他の人がコーヒーを飲んだり、売店で土産を買ったりして帰る様子が見えないので、もうひと演奏あると知る。でも席に戻ると、座席は先刻の70パーセントくらいに減っていた。

演奏会が終わると皆が一斉に帰るので、入り口付近は大混雑、タクシーどころではない。ガイドは往路の私たちの話を聞いていたとか、何と日本語も大分覚えたということか、皆がタクシーに乗ると思い、自分は自転車で来てしまったという。治安は悪くないオランダでもアムステルダムは例外で、スリ、ドロボウなどが多いと聞いていたので、大丈夫かと私は心配したが、カギを厳重に掛けたからと彼の自転車は置いて、再びトラムでアムステルダム中央駅へ。往路でも車中で、コンサートに行くのかと何人かに話し掛けられたが、復路は殆ど全員がコンサートの帰りなので、知らない人同士話が弾む。
駅からは先刻とは違う道を通って船へ。アムスは第二次大戦でほとんど被害を受けなかったとかで、古い建物がたくさん残っている。航海の安全が今のように保障されなかった東西インド貿易の時代、出発する夫と家族が泣き別れした「涙の塔」とか、1960年代に学生運動が荒れ狂った地域とか、あちらは例の飾り窓地区だとかガイドの案内。遠くに見える塔は、地盤の弱いオランダらしく、重さを軽減するために上半分は木で出来ているとか。時々自転車に乗った若い人達が通り過ぎて行くが、よく見るとなるほど足が長い。その上、立つようにして自転車に乗っており、これでは、しっかり座らなければ乗れない私たちとは、自転車の形も違うはずと納得。
川岸にはお客を降ろした観光バスが一杯、駐車場になっているらしい。歩きながらガイドが、「明日のバス会社からさっき電話があり、Allure が停泊している桟橋までバスが入れないので、荷物を全部持って中華レストランまで来てくれと言ってきた」と言う。どうも、以前に同じ会社のバスが桟橋で事故を起こしたので、恐れているらしいとのこと。電話はヨシが受けたため「承知した」と言ってしまった、明日二人で中華レストランまで行って運転手に交渉しよう、入れないわけはないのだから、と言う。桟橋には Allure を始めとするたくさんの船に物資を積み込むため、大小様々なトラックが出入りしているのに、何故バスが入れないの、と腹が立つ。第一あの糞だらけの道をスーツケースを引いて歩けないし、もし手荷物を道に落としたらどうなるの? 大体こちらの手配会社の日本人は、現地人に遠慮しすぎじゃないの、今回のベルギーではドライバーがワガママで、道が混んでいるといって動かなかったり町中に入らなかったり、船から使った現地バスでは、車内のトイレも自由に使えと言われたけれど、日本の会社に手配を依頼すると、ガイドが運転手に遠慮して「緊急時以外はトイレの使用をご遠慮下さい」と言うし、なんて、関係ないことまで色々思い出して、ついでに腹が立ってくる。もう夜も遅いことだし電話も出来ないので、とにかく明日交渉しようということで部屋に引き取る。

4月24日(土):いよいよ Allure とお別れ。9時には船を出ることになっているので、食事は30分早く7時半から。クルーとガイドがうまくまとめていて、あまり厳密さを感じないで来たが、食事時間や船の係留時間、私たちの乗船時間や下船時間は、実は非常に厳格に守らなければならないらしい。この船旅中、彼らは一度も私たちを急がせることは無かったが。クルーとガイドの連絡、連携の良さにはしばしば感心させられた、是非今後の教訓にさせて貰おう。
皆、大量の荷物を昨晩苦心してまとめたらしい、ほっとした表情で朝食に登場。桟橋にはよそのバスが来ているのが見える、うちのバスは本当にけしからん。食後には、今までツケになっていた、食事時にフリーの一杯以上飲んだ、飲み物代金の精算。ついでに余った小銭、使い切れなかったベルギーのお金、それに日本円、ドルまで含めて、ガイドとクルーにチップとして集める。何度か添乗に来ていると、彼らにはどんな珍しい日本土産よりも、現金が有難いことがしみじみ分かる。
アムステルダムの船着場 バス運転手に交渉のため早く出なければと、私が自室で荷物を出そうとしていると、今日の担当の日本人ガイドさんが、もう到着。会社から話は聞いたとて、既に運転手に桟橋へ入るよう話したと言う、Thanks。今日に限って、船の付いている場所は桟橋の先の板の橋の突先、バスまでは、それでもゆうに30メートルくらいはある。いつもと違って、甲板から橋の高低差も大きい。気になりながらも遂に解決できなかった、船からバスへのポーターをどうしようかと思いながら甲板へ。皆の荷物の重いこと。バスの運転手は来なかったが、ガイド、クルー、そしてメンバーの男手で、何とか荷物を橋上へ降ろす。手の数より荷物の方が多い人もあったが、ガラガラと30メートルくらい木の橋上を引きずって、ようやくバスの待つ桟橋へ。荷物を乗せて、いよいよ船とはお別れ。私たちが出た後は大掃除をして、次の客はやはり午後3時に乗るのだろう、今日はずっとここに居るから、忘れ物があったら来るようにといわれる。楽しかった船、ありがとう。


9時にはまだ他に開いている所も無いので、まずダイヤモンド工場?へ行く。途中、王宮の近くを通ると、ここの広場にも、女王誕生日を祝う移動遊園地が繰り広げられている。オペレーターが日本に変わったここからは、全く日本風の団体旅行スタイル。
ダイヤモンド工場へ入ると、ロビーの展示品をゆっくり見る暇もなく、「カギ」のかかる密室状の小部屋へ。ここで、色や不純物、カットなどで決まる様々なダイヤモンドの等級のいわれを説明され、現物も見せてもらう。特大のダイヤのついた指輪をはめて写真を撮る人も。買う人は室内に残って、特大ではない、手頃な品を更に物色、残りの人は売店やロビーなどで三々五々、時間を持て余す人もあったようだが、だんだんに他のお客も入ってきて大混雑の土産物屋で、随分時間を喰った。土産物屋にはダイヤは置いてないのに、何を買ったか? 船で行った所は田舎が多かったので、土産が充分に無かったということか、絵葉書、本、スプーン、Tシャツにデルフト焼まで、何でも売れたみたい。
アムステルダムの超目玉、国立博物館はダイヤ工場の真向かい。混雑するのは花の咲いているこの時期だけとのガイドさんの話だが、まず入り口が大混雑。団体で使う人は少ないのだろう、ミュージアムカードに最初は怪訝な顔をされたが、キップを購入する人よりはスムーズに入場。中も人が一杯で、ガイドさんも見学は逆回りにしようと言うありさま、有名な絵を説明して回っているうちに何人も消えてしまった。一通り説明の後は自由、工事中のゴッホ美術館の絵画がここの別館に来ていると言うことで、それを見に走って行った人も多かったようだが、私は絵画以外にも沢山ある骨董品の家具や陶器の展示場へ。とても数時間では見終わらない量だが、何しろ人が多い。いつか花の季節をはずして再度来たいものだ。

昼食のレストランも歩いてすぐの所。外装、雰囲気、従業員とも何やら東ヨーロッパ風、エキゾチックな雰囲気だが、お客の殆どは日本人。既に別のグループが食事中。最初に出てきた料理が出発前にもらったメニューと違うので変だなと思っていたら、やはり誰かが間違えたらしい、ガイドと従業員がしばらく揉めていたが、もう食べてしまったし、何とか話はついたらしい。詳しいことは私には分からないが、単価が違うと後で困るのだろう。私は行程すべて込みで支払ったので、関係無し。バスはレストランの前に停められないとのことで運転手はサンドイッチで良いと言っていたけれど、ありつけたのかしら。
とにかくバスは私たちを乗せて出発。事前の打ち合わせでは午後はマルケン島、エダム、フォレンダムと内海沿いの町を訪ねることになっていたが、既に沢山の町を見てしまったので、もういい、という声もあり、とりあえずマルケン島へ向かう。バウチャーに「マルケン島 TAX」と書いてあったのは何かと思ったら、早い話が入場料のことで、この村へ入るには払わなければならないとのこと、こうして入場制限もしているとのことだ。
歩いてすぐ港へ出る。とても可愛い町で、オランダに着いてすぐに来たならば大歓声というところだが、今となっては感激も薄い。港には売店が一杯で、見慣れたオランダ土産のほかにニシンやイワシをナマや酢漬け、真空パック、瓶詰めなどにして売っている。すぐに食べるからと、ナマの酢漬けを買った人もあり。この町も他の町と同様、とてもマネが出来ないくらい家の内外が美しく整えられている。ある家の庭先では、日本の竹箒を逆さにした中に花が植えられており、固定観念に縛られないアイディアに感心、その向かいの家には、犬かと思うような大型のウサギが三匹。オランダ辺りでは、食用に育てるウサギはフレミッシュ・ジャイアントとかいう種類で10キロにもなると聞いていたが、庭で飼っている様子は食用には見えなかったが、でもこちらでは家族同様に暮らしていたヤギや牛を、時期が来れば当たり前のこととして食べるのだから、分からない。その隣の家にも大型ウサギ。

エダムとフォレンダムはちらっと見るだけということでバスで出発、走り出して間もなく、ドライバーが「誰か魚を食べているだろう、やめてくれ」と言うのでビックリ。なるほど後ろの席で、先ほどのナマの魚をサンドイッチにしたものを食べていたのだけれど、私たちにはまるで感じられなかった臭いを感じるとは、日本人が魚の臭いに慣れて鈍感になっているのか、彼らは、食べると言っても嫌いな人も多いのか、謎。やめてと言ったのは、次の日まで臭いが残って、次の客が嫌がるからだそうな、へ〜。昔海外に長期滞在した日本人は、部屋の臭いの故に下宿先を探すのに苦労したと聞いたが、何だかそれを思い起こす出来事だった。

あれがエダム、これがフォレンダムと、町の外側を通りながら説明を受け、チーズが買いたいとて最後にはチーズ工場へ。現地に住んで20年以上になるというガイドさんは、普段は主婦とのことでオランダの日常生活について途中様々なことを聞かせてくれ、歴史よりもこの話のほうが皆の興味を引いた様子。中でも「無駄をしないオランダ人」というのが面白く、最近は変わりつつあるけれど、晴れ着というのが無く、結婚式も平服で驚いたことや、学校は入学式も無く始まること、卒業式も小中学では無く、高校で初めて体験したこと、教科書が貸与しきなだけでなく、ノート、筆記具に至るまで、必要な物は全て学校にあるので、登校に荷物が無いことなどを、ただただ感心しながら聞く。車で二時間も行けば外国なので、フランス語ドイツ語は小学校から、高学年では英語も始まり、日本では大学の教養科目であるラテン語やギリシャ語も、やりたい人は高校までには終わってしまい、大学ではこれらの語学は無いと言う。
またハムやチーズは他の国に較べて薄切りであること、薄く切れる特殊なナイフを売っていること、そしてその薄切りをパン一枚に沢山載せないよう子供の時から厳しく躾けると聞いて、船の中での私たちが一枚のパンに三枚も載せていたことを思い出して、首をすくめたものだった。
お茶に呼ばれて行ってみると、本当にお茶しか出ないこと、クッキーが出るときには缶に入ったまま出てきて、それを一つづつ取るとフタをして次の人に回すのが礼儀で、余るとホストもしまってしまうとか、感心するような笑える話でもあるけれど、観光地で聞くこのような話は、現地に住んでみないと分からないことではあるけれど、日本と比較して大きく異なるために尚更印象的なこの手の話を、聞くほうがこの国の全員の生活態度だと思ってしまうのも危険だと、いつも思う。

そんな話を聞いた後にチーズ工場へ着いたものだから、売店では薄切り用のナイフが売れたこと。この店は外の駐車場に入りきれないくらいバスが来ており、工場も売店も大忙し、でもトイレが少ないのが欠点。店の周りは広大な牧場になっており、駐車場の近くにも羊の親子連れがたむろしていたが、ここにもまたクジャクがいた。クジャクはたしかインド原産と記憶しているが、日本では動物園以外で見ることは本当に稀で、しかもこちらではどこも放し飼い、何か不思議な気持ち。

チーズ工場を出て、バスは一路今夜の宿ユトレヒトへ。先日と同じくアムステルダムを通るので、土曜日とはいえ渋滞が心配。
今晩の宿は、市内で自由行動時間が無かったのでアムステルダムを希望していたが、何しろ花の盛りのベネルックスは一年に一度の繁忙期、手配を依頼した会社からユトレヒトで勘弁してくれと泣きつかれて妥協したものだが、駅に隣接したホテルなのでアムステルダムへも交通至便、予定していなかったユトレヒトも見られると喜んだ人ありで、怪我の功名というところ。部屋で一休みの後夕食に出発することにして解散。

6時にホテル・ロビーに集合、バスで出発する。今晩の食事の場所は出発前には確定されておらず、現地でお知らせと言われて出てきたが、ガイドは知らす、どうやら知っているのは運転手だけらしい。どこで何が出るのか、この期に及んで聞いても無駄と思い黙ってバスに乗っていたが、運転手は高速道路にまで乗ってドンドン走って行く。この次の日の大事件の折に、ユトレヒトでの団体の食事はアムステルダムまで行ってしまうこともあると知ったけれど、この時は、町の中に沢山のレストランがあるのに、どこまで行くのだろうと大いに心配した。高速は使ったけれど、場所は未だにユトレヒト市内らしい。郊外にあると聞いていたユトレヒト大学の建物が見えてきた。土曜日の大学の構内は全く人気が無く、その中をヒタ走るバスに「学食じゃないの」なんて冗談も飛ぶ。大学構内からしばらく行った、大きな家が並ぶ高級住宅街で急ブレーキ、行き過ぎたらしいということで、どうも運転手に取っても初めての場所らしい、とヒソヒソ。
住宅街の奥まった所に豪邸風の建物があるのが、目標のレストラン。入って名を名乗ると、そんな名前では予約は無いと言う。旅行先では私の会社の名前ではなく通常は手配会社の名前で予約などはされているけれど、そこが更に代理店を使っていることもあり、今回は出発前にレストランの名前が分からなかったのだから、多分現地代理店の名前で予約されているのだろう。人数を言うと、そういえばそんな予約があったようだと頼りないこと。こちらも、知っているのは運転手だけと言う心細さ、それでも今日は団体予約は一つしか無く、人数が合っているというので一安心、とにかく席に着く。
中には日本人の姿はまるで見当たらず、またまたちょっと不安。レストランの中はいくつもの建物に分かれており、入って来る時見た一区画は、お客で満員だった。こんな辺鄙でひと目につかない所なのにこの繁盛は、結構有名な店かもしれないなんて言いながら、待つことしばし。内部の広さに較べて店員は少ないらしく、飲み物の注文をなかなか聞きに来ない。船の中で賑やかに、出るそばから食べるのに慣れてしまったので、ちょっと格式ばった雰囲気の中で待ちぼうけは耐えられない。ようやく店員が来て、それぞれワインやビールを頼む。どちらも飲みたくない人が水を飲もうとして、机の上にあるビン入りのミネラルウォーターを念のため確認すると、案の定ガス入りと言う。慌ててガス無しの水を頼んだら、ジョッキに入ったのを沢山持って来、こちらは無料だった。料理はおいしかったが、味よりスピードが気に入らず。たった一人の店員が間を置いて運んで来るので興趣をそがれて、せっかくの高級?レストランも悪評。
ワインが出た頃運転手がやって来て、自分の食事について何か聞いているかと訊ねる。バウチャーは無し、どこで何を食べるかも聞いていないのだから、知っているわけが無い。店員に聞くと、一緒に食べろと言うので私の隣に座ったが、彼もさぞ居心地が悪かったことだろう、何だか別の物を頼んで食べていたが、途中で席を立ってバスを何度も移動させられて散々のテイ。それでも皆から例の如く、カトリックかプロテスタントか、から始まって英語で色々質問されたりして時には話題に加わり、別れる時には楽しかったと礼を言われた。日中はガイドがせっかくオランダ語で話すのに英語で受け答えをし、生魚ではショックを受け、無口なので随分取っつきの悪い人のように思ったが、英語もできるのだし、もっと話し掛ければ良かった。普段はトラックの運転手をしているが、今のような繁忙期だけは、元勤めていたバス会社から頼まれて、週末だけ働いているとのこと、つまり彼は非プロテスタントであるわけだが、やはりこの繁忙期には慣れていない運転手も多いのだ。

4月25日(日):今日は完全フリー。朝食はホテル一階のレストランで。昨夜のレストランは高級かもしれないけれど、わざわざバスに乗って遠くまで出掛けて別に名物料理でもないのならば、ここのレストランで簡単に済ませても良かったのに。
自由行動の行く先は地理の怪しい人、言葉がまるでダメな人など様々なので心配したが、朝食の時に予定を話すのを聞いていると、なんとかグループ毎にまとまっているよう、行方不明にだけはならないだろう。
今日は日曜日で、プロテスタントのオランダでは殆ど全てが休み、出発前に配った自家製ガイドブックに、美術館などの開館・休館状況は調べて記載しておいたが、昨日のガイドさんによれば、アムステルダムのデパートは午後からオープン、私は恐ろしくて行く気にはなれないが「アンネの家」は割と早くから開いているし、外から見るだけでOKの物もあるから、何とか時間は潰せるだろう。
ユトレヒトでも有名な菓子屋さんなどが休みでガッカリだが、最近特にグラビアやカレンダーに採り上げられることが多い運河クルーズ、運河沿いのレストランなどは開いているようだし、ここには有名なオルゴール博物館もある、却って時間が足りないくらいか。
ホテルを夕方5時出発なので、荷物を置くためと早く戻って来る人のために一部屋だけでも利用時間を延長したいと出発前に日本から交渉してもらってあったが、延長は最大二時までとのこと、私の使っている部屋に大きな荷物の他、不要な手荷物も入れるよう昨夜の内に言っておいたので、朝食が終わるとドンドン荷物が集まり始める。中には持ち上げられないほど重いスーツケースもあり、ギョッとなる。免税品を買った人は税関に見せる必要があるので、品物をスーツケースに入れないでと言っておいたが、機内へ持ち込むのが可能かどうか心配なくらい大きい荷物になっている。空港の税関が荷物をチェックするかどうかはガイドさんにも分からない、やはり別にしておいた方が良いでしょうとのことだったが、こんな大きな荷物とは彼女も思わなかったでしょう。
全員が荷物を置いたのを確認してから私も外出、フロントへ私のカギを渡し、二時より前に戻ってくる人があれば貸してあげるよう頼む。例の伝言ゲームのノリで、全員の部屋が二時までOKになっていたらしく、フロントの女性は最初怪訝な顔をしていたが、皆が既にチェックアウトしたのを確認してニッコリ、私のほうも二時に戻ってきてチェックアウトでは、皆もゆっくり外出が出来ないだろうにと、代理店を通しての交渉がいつもながら不充分なのを痛感する。
ユトレヒトの駅はオランダ中の鉄道網の中心と聞いたことがあるが、なるほど相当大きな駅。駅ビルのようになっていて何でも売っているようだが、日曜日の今日は閉まっている店が大半、マクドナルドのような店でも11時とか12時に開く、帰りにも通ったが、ほとんどは閉まったままだった。でも本当に全員が教会に行っているのかしら。
キップの自動販売機を覗いてみたが、全部オランダ語で、しかも都市名が番号化されていて、多分これでは皆は使えなかっただろうと思う。すぐそばには勿論人間の居る出札窓口がある。乗車時には列車の行く先とホームの番号を見てホームへ降りていくシステムになっているが、日本と違って同じ行く先がいつも同じホームではないので、メンバーの中の一組はホームに降りる度に電車が発車してしまい、何度も乗り遅れたとのこと。
私はもうアムステルダムへは行かない方が無難と思い、興味もあったのでユトレヒトの旧市街とは反対の方角へ。新市街ともいえない静かな地域にやはり運河が走っており、周りには農家風の家もあるがモダンな感じ。流れにはカルガモちゃんが赤ちゃんを引き連れて遊び、岸にはヤギや羊も見える。沢山の水上家屋が岸に係留されているが、日本のあのいかがわしい雰囲気は無く、どの家も磨き上げられたガラスの中には立派なソファがあり、タイニングテーブルの上には花が一杯。日本で水上生活といえば、およそ優雅とは縁が遠い響きだけど、ここでは憧れてしまいそうなステキな住まい、でも大雨の日や増水したらどうするのだろう? 私はやっぱりやめておこう。中には娼婦の家もあるそうな。運河には幾つもの跳ね橋が架かり、カヤックの練習をしている人、自転車で走り回っている人も沢山、更に行くと片側三車線くらいの大きな道に出る。木組みが外に見えるアルザス式の建物なども見えるが、一部はアラブ人地区になっているらしく、独特の容貌の人達が商店の周りでたむろしている。近くでは「大ノミの市」も開催中。
駅へ引き返し、今度は旧市街へ。まず運河へ。上の道から見下ろすと、カレンダーやガイドブックでよく見るように、運河の両側にレストランが一杯、水は岸のすぐ下まで来ていて、座ったまま足を伸ばせば届きそう。さんざん運河クルーズはしたので止めるつもりだったが、どんな町なのか、結局船に乗ってみることにした。
船着場からしばらくは両岸全てがレストラン。中華やイタリアン、喫茶店もあり、どこも大勢の人が寛いでいる。この他にも劇場、倉庫、家まで、様々なものが運河沿いにあり、船の運転手が説明しながら進む。途中カヤックの連中とすれ違う。両岸のレストランの大勢の客の羨望のまなざしを浴びながらの練習で、得意げ。両側の壁には、この町の昔の様子などが描かれた、小さな石の彫刻板がはめ込まれている。繁華街からはずれると、両岸は一杯の花に覆われ、犬の散歩をする人、スケッチをする旅行者らしい人も見える。建物の雰囲気はベルギーのブルージュに似ていると感じたが、考えてみればブルージュとはわずかしか離れていないし、一時は同じ国だったこともあるんだ。運河クルーズ自体はブルージュよりのんびりした感じ。
船を降りたところで、乗る時から気になっていたパンケーキ屋へ。ヨーロッパで物を食べる時、日本と同じ名前で現物は違うものが多くて時に当惑するが、ここもパンケーキと書いてあったので日本のホットケーキのようなものを想像していたら、大きなお皿一杯に広げたクレープのようなものだった。その上に好みのものを載せるように注文するのだが、既に粉砂糖がかかっており、卓の上にはメープルシロップの大瓶。量が多い上に甘くて、水も出ないのに小さなコーヒー一杯では、皆はよく食べられるものだと感心、私は結局コーヒーをもう一杯注文して、やっと口に押し込んだ。「おいしかった?」と訊かれたので、「日本人にはもうちょっと小さくて充分」とアドバイス?して来た。

次はオルゴール博物館。日曜日でも開いているここは、中も外も大量の日本人グループで押すな押すなの大盛況。内部は係員による一時間おきのガイド・ツアーになっているが、グループでない人は数えるほどしかおらず、すぐ横にいたオランダ婦人がわざわざ「私たちもいるよ」と言いに行く始末。入り口ホールの最初のオルゴールも、日本の曲を奏でてから説明に入る。
日本人のグループはどうやら三つあったらしく、館のガイドがオランダ語、英語で説明した後、一人の添乗員が日本語に訳す。私は以前ベルサイユ宮殿に個人旅行で行った折、グループのそばに立っていたら日本語の説明をタダで聞いただろうと睨まれたことがあり、日本のグループと一緒はイヤだったけれど、今回は堂々と日本語の説明を聞くことが出来た。急ぐグループもあったらしく、途中で一つのグループは消えてしまった。グループでない人の中には、先ほどのオランダ婦人の家に滞在していたという若いタイ人の女性が二人、大分年上のオランダ婦人と私をグループの雑踏から必死で守ろうとする。日本の女の子なら絶対しないだろう。ビデオを撮っていたアメリカ人は、日本人のあまりの多さに驚いて、そちらを撮ってしまった、と笑っていた。人が多くてオルゴールが撮れなかったということもあったみたい。
館内には世界各国、各時代のオルゴールがあるが、どれもが「仕掛け」になっていて、音が出ると同時に人形が動いたり、鳥が飛んだりする。自動ピアノも原始的なものから改良された物まで色々、圧巻は「オーケストラ」というもので、一つの機械の中に自動ピアノやシンバル、バイオリンなどが組み込まれている。バイオリンは一本ずつ弦の張られたものが三台、人間が弾く時には弦を一度にいくつか押すのを、三台の弦を別々に押して、それが一台として鳴るようになっている。音が充分大きくて、強弱もはっきりしていて、かなり難しい早い曲を堂々と演奏するのには驚いた。
最後の大きな部屋には、先日ハーレムのストリートオルガンのコンサートで見たオーケストラ・オルガン。やはりダンスホールで使われたもので、大広間の壁一杯の大きさだが、分解して運ぶことも出来るとのこと、先日どうやって倉庫から出すのか心配したがナ〜ンダ。
入り口ホールに戻ると、待っている次のグループも日本人が一杯、売店も外も日本人ばかりと言えるほどの多さ、彼らもアムステルダムからはみ出たのかしらなんて思ってしまう。
続いてすぐ近くの教会へ。教会前の広場、道端はレストランの椅子がはみ出ていて、ここも人が一杯。観光客なのかオランダ人も午後になると活動を始めるのか。塔の脇の本屋にはイコンだの絵画だのの本が一杯だが、荷物が重くなっているのでこれ以上は買えないし、時間も無くなったことで早々に切り上げホテルへ向かう。

ホテルへ帰ってみると既に全員集合、行方不明者が出なくて良かったとホッとする。私と同じくユトレヒトで運河クルーズなどをして過ごした人、アムステルダムまで苦心惨憺して出掛けアンネの家に行った人、買い物に精出した人、など色々で、アムステルダムではストリートオルガンも道に出ていたとのことだった。
少し早めだが荷物を降ろし始める。外を見るとバスが一台、フロントに訊ねると私たちのバスだと言い、ポーターに荷物をバスに運ぶように指示するので私たちも移動。運転手も手伝って荷物を全部トランクルームに入れ、乗り込んだ時、運転手が改めて「行く先はどこ?」と訊く。おかしなことを訊くな、と思い会社の名前を言うと、そんな名前は知らないと言う。昨日のレストランのこともあり、会社の名前は色々混乱しているので彼に行く先を訊くと、アムステルダムと言われているけれど、命令ならばスキポール空港でも行くと言う。ますます変だなと思ったが、ホテルでは今日の団体は私達だけだと言うし、もう出発予定時間まで5分しか無いのに他にバスは見えないので、そのまま乗り込んでとにかく出発した。走りながら運転手に再度確認すると、彼はアムステルダムへ夕食の50人を運ぶよう言われて来たと言う。それは随分変じゃない、と言うと、でも今はスキポールへ向かっているからとのことで、それなら良いわと座りなおした。しばらくすると運転手の携帯に電話が架かってきたので何だったのと訊くと、バスが違っていたと言う。びっくりして、どうするのと訊くと、このまま空港へ行くと言うので、ホテルで待っている人はどうするのかしらね、なんてノンキに話していたが、その後も運転手には何度か電話が掛かり、気が付いたらバスはホテルへ逆戻りしていた。
ホテルにはアムステルダムへ行く予定のアメリカ人の団体がロビーに待機しており、添乗員らしい若い女性が、何故出発したのかと運転手に喰ってかかる。ホテルが今日の団体客はこれだけだと言ったからと運転手が抗弁する間にも、私たちの荷物はジャンジャン降ろされてしまう。私たちのバスはいない。遅れてきて、私たちがいないので、帰ってしまったという。6時には空港に行かなければならないと私が言うと、同情はするけれどこのバスは私達のだからと彼女も譲らない。同情した彼女から皆にはフリードリンクを差し上げると申し出があったけれど、どうなることかと動転して、誰も飲む人も無い。乗るバスは無いし、時間は迫るし、それじゃあ私たちはどうしたら良いの、と私も困り果てて訊ねると、帰ってしまったバスを呼び戻すよう自分が話をするからと、私のアムステルダムの手配会社へ彼女が自分で電話を掛けた。日曜のことで、事務所と連絡がつかなければタクシーでも呼んで行こうと、私も覚悟を決めて聞いていると幸い相手が出て、彼女と喧々諤々。アムステルダム行きのバスに私たちも乗せてやってくれと頼んだらしいけれど、既に50人いるバスに乗せることは出来ない、バスを取り替えてとか色々頼んだらしいがダメ、とにかく帰ってしまったバスを呼び戻すことになった。そう決まってからもアムステルダムの事務所は、運転手、ホテルの人を次々に電話口に呼び出して何やら話し、後で分かったことだが、私たちが飛行機に乗り遅れた場合に備えて、責任の所在を確認していたらしい。
この繁忙期、オランダ中のバスは払底していて、事故があっても代わりのバスを出すことが出来ないため、手配会社は手配会社でその対応に追われていたと帰国後聞かされてゾッとしたが、そんなことより帰ったバスを早く呼び戻してよ、やっと電話の番が回ってきて私は叫ぶ。バスは5時丁度にホテルに着いたのに、何故時間前に出発したかとアムスの事務所側は私をなじるが、私たちが出発したのは5時5分前、その時点で陰も形も見えなかったら5時には出発出来ないでしょう、時間どおりに来たとは言えないでしょうと私も必死に反論。事務所の方も大混乱だったらしく、「あの運転手バッカだな〜」なんて声が電話口から漏れ聞こえてくる。さっき乗っていたバスは既に取られてしまったので、電話で呼び戻したバスを待つしかないということになり、アムステルダムの事務所からは空港へ連絡してもらうことにして電話を切る。ホテル側もミスが全く無いとは言えないので、ホテルからもエアフランスへ電話をして貰うことにして、固唾を飲んで見守る皆の所へ戻る。
絶望的な気持ちで待つことしばし、ほとんど全員が外に立っている前へやっとバスが。乗ると今度は時計とにらめっこ。日曜とはいえさすがに行楽から帰る人も増えだし、アムステルダムへ向かう道は、気のせいかさっきより大分混んでいる。スピードが緩むたびにイライラして先を見ていたら、やっと「スキポール空港」の標識が見えた頃、向こうの信号が何と全部赤になって大渋滞、どうも先のほうは止まっているらしい。この忙しいのに、そして交通の大要衝に何と跳ね橋があって、船を通すために今それが揚がっているのだった。バスの中では絶望的な嘆息。それでも運転手の必死のあがきで空港へは予定より50分遅れの6時50分に到着、バスが停まる前に外から手を振っているアシスタントの必死の表情が見える。
アシスタントがカウンターに頼み込んで、キップもなしに搭乗券を出してもらったので、もう乗り遅れる心配は無くなったとのこと、ポーターを呼ぶ間もなく、各自荷物を引きずってカウンターへ辿り着く。でもこんな時でも焦るのは日本人だけなのでしょうかね、カウンターに登らんばかりのアシスタントを横目に、搭乗券を打ち出したのは自分ではないからと、一人に二枚づつあるキップを一枚一枚丁寧に付き合わせるエアフランスの係員、読み難い名前をいちいち確認し、横から話し掛けられればにこやかに無駄話に応じて、息も絶え絶えのわれわれのことは眼中に無し。それでも時間が少ないからとスーツケースはフリーパス。載せたら29キロ、32キロなんてのもあったけれど、何も言う暇が無かったらしい、助かった。
ゲートの集合まであと15分というところでようやく全員のチェックインが終わり、中へ。でも後15分あるんでしょう、と入ってすぐのところに店を発見して、皆の足が止まる。もっと時間がある予定だったので、空港で買い物を予定していた人が多く、またパリは夜遅くなるので買えるかどうか分からないので、買い物を止めることも出来ない。外貨の残りが少なくなって、オランダ・ギルダーの他、ベルギー・フラン、米ドル、日本円のミックスにカードの人もあり、世話役の私も先に行くことは出来ない。それでもせかしにせかしてゲートへ走って行くと、まだ飛行機が来ていない。遅れるとか何とかフランス語のアナウンスをしているようなのでカウンターで確認すると、15分ほど遅れると言った後、「あんなに急いだのにネ」とカウンターのおじさんがウィンク、「あんたたちが遅れたのは飛行場中の皆が知っているよ」と笑われてしまった。ナ〜ンダということで、再度売店へ戻る人があり、私もついて行く。

パリまでの飛行機は来た時と同じ、機内で出たパンが美味しかったので、今度こそはと皆、複数取った様子。外はいつの間にか暗くなってパリが近付く頃には真っ暗だが、それだけに地上の明かりが美しい。着陸前にはエッフェル塔が見えますよと言ってあったので、みな必死で外を見る。私は左側の席でいつまでたっても見えないなあと思っていたら、右側から「見えた!」の声、僅かの間だが、灯りに彩られたパリの夜景を楽しんで、今度はパリにもゆっくり来たいねと言いながら着陸。来る時とは反対でまずFホールに到着、成田行きが出るCホールまで、今度はシャトルがあるだろうと外に出て待つが一向に来ない。周りには同じく日本に帰るらしい日本人団体客がゾロゾロ。シャトルらしいのは何度か来たが、運転手に訊くとCへ行くのは全体がブルーのバスと言うばかり、視界にはブルーのバスは全く見えないので、来る時と同じ距離だからと歩くことにする。Cホールに着いたが、23時20分発なんて全くの最終便で、空港の施設はほとんど閉まっている。アムステルダムでやり損ねた免税のハンコを貰うべく、税関はOKだったが、換金の方はもう閉まっており、これは成田でも出来るとのことで諦める。案じていた売店は、さすがにこのゲートだけは開いており、日本語の話せる店員もいた。いつも買うビスケットを探したが見当たらず、荷物を増やすのも面倒なので、適当な物を二つだけ買う。後で見たら買ったのはビスケットではなくサブレーだった、ま大して変わらん。
出発の一時間以上前から搭乗開始、帰国便はいつも土産物で荷物を置く場所が一杯になるので、少し早めに機内へ。頼んでおいたはずなのに赤ちゃんが一緒の得重さんも今回は普通の席、でも子持ちなのには男のアテンダントがすぐ気が付いて、赤ちゃん用のお風呂セットか何かを持って遊びに来る。席に余裕があれば便宜を計ると言ってくれたようだ。その後も何かにつけて彼らは赤ちゃんの所へ遊びに来る。外国人は、赤ちゃんと見ればイカツイ男の人でも必ず何らかの反応があるが、日本の人は本当にこういうところ、自然な感情の発露が少ないと痛感する。

時間が来たが飛行機が離陸する気配なし。しばらくすると「機材の点検をしている」と機内放送がある。そのままずっと座ったまま待たされ、そばから「水くらい出せ」とかの声も上がる。途中で機内放送に「repair(修理)・・・」なんて言葉が混じり私はギョッ、せっかくアムステルダムを無事に通過してきたのに、ここで一泊なんてなったらどうしよう、でも整備不良で出発より良いか・・・、なんて考えていると、ようやく動き出し、2時間遅れの1時30分離陸。もう眠くて死にそう、なんて声の中、またまた食事が夜中の3時頃に出るのだから、何が何だか分からない。この飛行機もタヒチ行きらしく、すでにバカンス風の短パン姿の人もチラホラ、斜め前のフランス人はパンを三度もお代わりし、ワインもジャンジャン、その食欲にびっくり。

途中で遅れを取り戻すかと期待していたが、結局大分遅れて成田着。青森へ帰るお二人は、夜行にギリギリだわ、と機内で挨拶をするほど焦っていたのに、荷物がなかなか出てこない、そして出てきたスーツケースには傷がついていた。ターンテーブルのそばでエアフランスの係りの人を探したが見当たらない、警備の人にまで協力してもらって走り回って探したが、結局見つからず、時間も無くなってきたので、証拠にと私が写真を撮ったら、税関内での写真撮影は禁止とかで係員が飛んできた。スーツケースの接写写真だけということで、注意だけで済んだが、私も慌てたこと。翌日エアフランスに電話をしたら、係員がいませんでしたかと疑わしげだったが、結局写真は不要、そして現像仕上がった写真を見たら、露出オーバー?で、まるで訳の分からない写真になっていた。

でもまあ、楽しい旅でした。 

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