エジプト旅行 8 - 20 July,2004

暑い夏7月に仕事仲間の団体でエジプトへ行ってきました。 訪問先はギザカイロルクソール西岸ルクソール東岸クルーズエドフコム・オンボアスワンアブシンベルカイロ郊外のピラミッドメンフィス再びカイロです。

7月14日(水)エジプト航空成田発13:30、座席は「AC・DEFG・HK」の八列、座りやすいですねぇ、機内は4割くらいの混みよう、夏ですので行く人は少ないのでしょう。面白かったのは離陸時には毛布を畳んで置くように言われたことでした。離陸間もなく機内から富士山が良く見え感動、日本アルプスも良く見えました。


美しい富士山


砂漠の中の砂山


アルプスもビックリの雪山
夕食は和・洋それぞれに魚または肉、私の大好きなグアバ・ジュースもあり、新聞・週刊誌のサービスといい、随分頑張っている感じがして好感が持てました。
飛行機は中国西方の上空を飛行しているらしく、7時間ほど経つとゴビ砂漠でしょうか一面の砂漠が見えてきました。しばらくすると大きな砂山群、またその砂の中に大きな街が見え、その後はまた砂漠になりました。 次はアルプスもびっくりの巨大な雪山、凄い!

何時の間にか暗くなっていた機内が突然点灯されて明るくなりました。飛行時間は14時間ちかくですから食事時間のコントロールも大変でしょう、皆起こされて食事になりました。日本時間の夜11時ごろです。
食事が終わるとまた消灯、でも私はずっと外を見ていました。下には湖が見えます。飛んでいる場所はタシケントの西とか言っていましたがどうでしょう。ヨーロッパへよく行く私はシベリア上空とは随分違う地上の景色が珍しくて、結局全然眠りませんでした。

まだ砂漠の上を飛んでいるのでしょうか、真っ暗な地上に点々と明かりが見えます。見上げると空の星も美しいこと。
飛行12時間ほどでいよいよ地中海へ入りました。真っ暗な中に大きな都市、レバノンのベイルートではないの?、美しい灯りが一杯で海岸線を浮き出させています。仕事で毎日レバノン情勢を気にしていたOL時代が懐かしく思い出されます。キプロスも真近いとのアナウンスがありました。
灯りのお陰で地上の地形がくっきり浮いて見え、あそこはあの街かしら、なんて言っているうちにようやくカイロへ到着、地上に街灯に照らされた大きな道がくっきり見えます。日本時間で朝の5時、温度は34度でした。
空港ビルの中には両替用の銀行が並んでいます。VISAは係員が印紙を買ってきてくれますが、この印紙、個人より団体の方が高いというちょっと変な値段設定です。

バスに乗ってホテルへ。私達が泊まったラムセス・ヒルトンはカイロ市街のまん真中という感じで、建物の真下がバス・ターミナル、真正面が考古学博物館という好立地ですが、カイロの自動車は信号がほとんど無い通りを勝手に走るので、おのぼりさんである私達には外に出てこれらの場所へ行くことは恐ろしい限りでした。ホテルの隣は24時間営業の商店街ビル、裏側はナイル川です。

部屋から見えるカイロの街はスモッグが一杯、とても高級車とはいえない沢山の車の排気ガスのせいか、それともデジカメの中まで入り込むという砂漠の砂のせいでしょうか。
7月15日(木)今日はいよいよギザの大ピラミッド観光です。
外は38℃〜42℃くらいと暑いけれど、程よく冷房の効いた食堂で朝食、窓の外にはナイル川の静かな流れが見えます。フルーツを食べないようにとか様々な衛生上の注意を受けて来ましたが、このような立派なホテルでは問題無いようです。私は結構警戒しましたが。それでも飲料水は直接水道から飲むなんてことは勿論出来ませんから、ミネラルウォーターを買うように言われました。
エジプトの通貨はエジプト・ポンドと呼ばれ、イギリスのポンドと同じ「£」の印が使われ、こんなところにイギリスの植民地だった名残がうかがわれますが、1£=20円程度とのこと、ミネラルウォーターは2〜5£、枕銭が1〜2£とのことで、トイレは1£の更に半分くらいが相場とのことです。あと観光場所でカメラの持込が有料の場合は5〜10£くらいでした。

バスに乗ってホテルを出ると、外はもの凄い喧騒、埃だらけで、車と人々がメチャクチャに道を横切る様を見ると、やはりここがイスラムの国であることを思い知らされます。それでも滞在中の様々な見聞から、私はエジプトはヨーロッパだと強く感じましたが。
カイロの郊外に出ると高速道路もあり、立派なビルもあるのですが、一部はアラブのスラム街そのまま、そんな中を30分ほど走ってピラミッドのある場所へ着きました。


道のすぐそばにある


遠くに霞むカイロの町


クフ王のピラミッド
砂漠のことですから私は一面に広がる砂原を想像していましたが、ギザのピラミッドのある場所はメインストリート沿いなので沢山のバスが賑やかに走る道からピラミッドが良く見えます。ちょっと崖のように高くなっている所に大きなピラミッドが二つならんで立っていました。最大と言われるクフ王とカフラー王のピラミッドです。この高台からはスモッグに包まれたカイロの町がよく見えます。

さすがに大きい! 高さは150m近く、何と約50階建てのビルくらいだそうですが、平地に単独で立っているので、そんなに大きくは見えません。石の一辺が私の身長より大きいものもあります。
ピラミッドの用途が実は何であったかは今もはっきりしないそうです。墓所と言われたこともありましたが、棺のような容器はあれど、盗掘の跡の無いピラミッドの中にもミイラが入っているものは無いのだそうで、今では別の用途だったのだろうということになっているそうです。

今から4500年も前に建てられたということで、大きな石をどうやって正確に方位を定めて高さ150m近くまで積むことが出来たのかが謎とされています。一段積むたびにその高さまで道を積み上げて、そこから石を水平に移動して積んだとも言われており、ルクソールへ行くとその跡と言われる「日干しレンガ」の堆積山が壁に寄りかかったまま残されている建物がありますが、一つ一つの石の重さは何トンもあるので、石とそれを動かす人員の重さに「日干しレンガ」が耐えられるのか、という疑問も呈されているそうです。

この場所には世界最大のクフ王のピラミッドの他、その子供であるカウラー王、さらにその子メンカウラー王と三つの大きなピラミッドが並んでおり、エジプトでは全ての方位が正確な割に三つのピラミッドが真っ直ぐに並んでいない、おかしいと言われてきましたが、最近になって、ナイル川とピラミッドの位置関係は大昔の天の川とオリオン座の星の位置を「正確に」表したものだということが判明し、往事の天体観測が現代の最先端観測と遜色無い正確さで、思いがけず文明が進んでいたのではないかと、ちょっとした騒ぎになりました。

ピラミッドは最初の頃は表面がツルツルの化粧石で覆われていて全体が滑らかな印象だったようですが、今ではその名残はカフラー王のピラミッドの頂上近くに少しだけしか残っていません。剥がされた化粧石は麓ピラミッドのに少し置いてあります。
大きなピラミッドの前で写真を撮ったり石に上ったりした後、三つのピラミッドが見渡せる場所へ移動、ここから見るとピラミッドは一面の砂漠の中です。
風の強い日には砂の微粒子が飛んでカメラの中にも入り、デジカメがダメになったこともあると聞いていたので普通のカメラも持って行きましたが、この日は風が無く、気になるのは暑さの方でした。


三つ並んで


メンカウラー王のピラミッド


スフィンクス
超人気のクフ王のピラミッドの内部へは入場人数が制限されておりパスしたので、私達はちょっと離れた一番小さいメンカウラー王のピラミッドの中へ入りました。
かなり上の方にある入り口まで息を切らして登り、細くて低い通路を入って行きますが、昔の人たちはどんな環境で作業していたのでしょう、現代は電気もつき太いパイプで換気がしてありましたが、それでも中はホコリもあって息苦しい感じでした。この中で松明などで明かりを取って作業していたとしたら、随分肺活量が大きかったのでしょうね。
苦心して入った割には中には何も無く、ガランドウでした。

ピラミッドのある丘を下って行くと三つのピラミッドの真ん中カフラー王のピラミッドを守るようにスフィンクスがあります。更に下った場所には河岸神殿と呼ばれるピラミッドより更に大きな石で出来た建物があり、ここからスフィンクスを見ました。
昔は河岸神殿までがナイル川の岸だったということで、ピラミッドの石はここまで船で運ばれてきたのだそうです。
スフィンクスはカフラー王の容貌を模したと言われていますが、侵入してきたアラブ人に鼻を削られ、付け髭はイギリス人が獲って行って現在は大英博物館にあるそうです。歴史小説家グラハム・ハンコックによればしかし、スフィンクスの摩滅の激しさはカフラー王よりずっと前、先史時代の大雨によるもので、エジプトの地自体が大雨の降る場所だった時代があり、スフィンクスはそんな昔に作られたものであるという証明であるとのこと、それは一万年以上前のこととか、すると誰の顔なのでしょうね。カフラー王の現存する像はたったひとつ、河岸神殿から発見された僅か7センチ余りのものだけで、あまりに大きなスフィンクスと似ているかどうかは判断できません。
スフィンクスとピラミッドの中間の場所では2004年にも「オシリスの墓」とされる遺跡が新たに発見され、エジプトの謎はまだまだ興味が尽きません。
この後、河岸神殿の外に出て駱駝に乗りに行きました。エジプトの駱駝使いは悪名高く、値段交渉してから駱駝に乗っても、追加料金を払わないと降ろしてくれないと評判ですが、こういうことはガイドの眼力で何とでもなるのでしょう、私たちはほんの安い金額で安心して乗ることが出来ました。
でもまあ駱駝に乗ることが楽しいかどうか、これは個人の趣味の問題でしょう。掴まる所が一ヶ所しかなく、駱駝が立ち上がる時には背中が急傾斜になるため、前に落ちそうになりました。
何頭もの駱駝に担当者は一人、ご親切に乗っている写真を撮ってくれるのですが、その間他の駱駝は放ったままですから駱駝もサボる、隣の駱駝にチョッカイを出す・・・で、乗っている人の悲鳴も聞こえました。ヤレヤレ。 駱駝は結構悪い子。
この後食事。レストランの窓からは三つのピラミッドが良く見えました。4500年も前の建造物を眼前に見ながら食事、なんだか不思議な気持ちでした。
暑いので皆はサッカラなんていう銘柄のエジプトのビールを飲んでいました。果物が豊富なのかマンゴーやオレンジの生ジュースがふんだんに出、私はこの後もほとんど毎日濃いマンゴージュースを飲んでいました。
食材はやはりアラビア? ゴマが良く出ましたが、他はカブ、なす、ポテトサラダなど馴染みのものが多く、食事での苦労はありませんでした。食後にはスイカ、このレストランも安全なので生の果物も大丈夫とのことでした。
カイロへ戻って、今度はモハメド・アリ・モスクへ。
モスクへ向かう道は、一応モダンで整然としているカイロの町とは違って、ここぞアラビア!という感じのゴチャゴチャ、ゴミゴミで、私は夢中で写真を撮りました。
モスクの向かい側にはモンカッタンという石灰岩の豪快な岩山、頂上には軍事基地があるようでしたが、モスクも堅固な城砦、サラディンの要塞の中。ピラミッドを作っていたころのエジプトは外敵に襲われることの無い平和な国だったそうですが、紀元前7世紀ごろの末期王朝時代以降はアッシリア、ペルシャ、マケドニア、ローマ、そして最後にイスラム、トルコと外国軍の侵略の連続でした。そんな中、エジプト近代化の基礎を作ったのがモハメド・アリと言う人で、彼を祭ったのがこのモスクですが、岩山と城壁に囲まれ、外観は無機質な灰色の岩ばかりです。内部にも軍事博物館やら警察博物館やらあり、警備も厳しくて、ちょっと緊張する一帯でした。


モハメド・アリ・モスクの正面は軍事基地

モスクと衣装モデル→
緑色のマント

バスを降りて近づくと緑の芝生、内部も色とりどりの花が植えられていました。芝生の中には記念撮影用にアラブ風?の王族の衣装を着たカップルが立っていて、写真を撮ると勿論有料。
モスクに入るには入り口で靴を脱ぎ、肌が見える服の女性には体を包むための緑色のマンドを貸してくれます。肌が出ているか否かは寺院側の判断で、出ているとされた人は入り口で否応無くマントを持たされるようです。
寺院の中は豪華なようなチャチなような、これが私たちイスラム世界の価値観の違いなのでしょう、荘厳さと安っぽい派手さが同居しているような印象ですが、実は贅を尽くした作りで、アルメニア産の大理石がふんだんに使われ、床一面に絨毯が敷かれた聖堂内には礼拝の人たちも沢山いました。西洋の教会と違い入り口から裸足で入るので、寝転がっている人もあり、こういうところは日本の寺院の本堂と同じ感じがしました。ぶら下がっている灯りはシャンデリアのような豪華なものではなく、高価なものなのでしょうがどちらかというと裸電球という感じ、でも天井はモザイクでしょうか、イスラム独特の素晴らしいデザインでした。

モスクのバルコニーからは埃でぼんやりしたカイロの町が一望に見えます。
この後市の中心部へ戻ってカイロ考古学博物館へ。ここは内部は勿論、外観も撮影禁止と言われ、博物館正面の池にはいかにもエジプトらしい蓮の花とパピルスが植わっていたのに、写せず残念でした。

何年か前にエジプトで起こった過激派による銃撃事件では日本人を含む大勢の団体旅行者が犠牲になりましたが、観光も大きな収入源であるエジプトでは安全をアピールしなければ観光客は来ないということで、それ以来軍隊と警察を総動員して警戒しているため、日本のようにノンビリした国から行くと恐ろしくなるようなものものしさで、カイロ考古学博物館も制服姿がウロウロしていて、盗み撮りもちょっと怖くて出来ませんでした。

館内には小さな書店もありましたが、やはり大英博物館やルーブルとは売っている書物の量も質も大違いで、ミュージアムショップで本を買うのが大好きな私でも買うものは余りありませんでした。

内部は見るべきものが沢山でガイドさんも一生懸命でしたが、散々観光した後だったので疲れている人が多く残念、ここへは早朝に来るべきでした。エジプトの「歴史」に興味がある人にとっては貴重な展示品なのでしょうが、早くに発見された大物は全部外国が持っていってしまったのですね、大英博物館やルーブルに比べると数も少なく見劣りがする感じでした。亡命中に亡くなったイランのパーレビー国王の墓もここにあるそうです。
内部には歴代の王たちの像が沢山置かれていますが、それらの像の足が揃っているのは死んだ像、生きている時を写した像は片足が踏み出したようになっている、手を組んでいるのは死んだ像、髭も生前の像と死後の像では区別があるそうです。

ツタンカーメンの展示は圧巻でした。王としてはほとんど無名の彼の墓から出た品々だけでこんなに沢山、そしてこんなに豪華、皆が他の大王たちの墓探しに躍起になる気持ちも理解できました。
ツタンカーメンのミイラを作る大きな作業台だけでも黄金で出来たものが何台もあり、棺の入っていた厨子も黄金張りの巨大なもの、黄金の椅子もありました。
棺の上に置かれていた花束がドライフラワーになって残っているのは有名ですが、他にも世界最古の「下着」とか布製品が完全な形で残っているのが印象的でした。

ツタンカーメン展示室のそばにはミイラ室、エジプトで一番有名なラムセス2世を始めとして11体あるとのことでしたが、ミイラはあちこちで沢山見ているし、別料金、疲れてもいるので省略。

明日は早いということで、夕食後は早々に就寝しました。


7月16日(金)今日は国内線の飛行機でルクソールへ移動とのことで、空港午前6時着。朝食も食べずに行ったのに、空港では訳も分からず随分待たされました。
カイロ空港は近代的な建物に改築中で、第二ターミナルは新しく綺麗。まずは待合室でお弁当。私たちのグループ以外にもほとんど全員が食べていました。空港は結構な混雑で、座るところも無い人、スナックのようなところで食べている人もいました。
荷物のチェックインが終わるとゲートらしいところへ移動、今まで広い待合室にいた人たちが狭いゲートに押し込められ、かなりの混雑。他の便に乗るらしい人も混じっている感じなのに配られた搭乗券には便名も書いてなくて、ガイドだけが目印ね、なんて言ってようやく搭乗。飛行時間は約1時間でした。

エジプトは現在はイスラムの国ですが、昔はモーゼが住んでいたり地理的な理由からキリスト教の影響も強く、現在も初期キリスト教の一派コプト教を信じている人も多いため、カイロからルクソールの間は宗教紛争から来るテロが活発なため陸路での移動は不可能とのこと、列車に乗ろうにも外国人には切符を売ってくれないこともあるとか、貴重な遺跡が一杯あるのにもったいないことです。
ルクソールのすぐ北には美しいことで知られるセティ1世の葬祭殿がありますが、ここへも単独行動は出来ない様子。ホテルも無いとのことで、この地域の観光はすべてルクソールが基点になるそうです。


←雨が無いので屋根無し

↑本物のワニが装飾

    →向こうに木の橋
ルクソール空港到着後、まずメムノンの巨像へ向かいます。
空港を出たバスはナイル川に沿って走り始めます。カイロでのナイル川はゴミも多くちょっと不潔な感じでしたが、ここでは岸辺のノンビリした家々とその住人が印象的でした。雨はめったに降らないということで屋根があるのやら無いのやら、日干しレンガの壁だけで囲まれたような低い家々が川のすぐそばに立っています。洪水の時には放棄して水が引いたらまた建てる、そんな昔そのままのたたずまいの家々、その周りで犬や牛、ロバと一緒に過ごす人々の姿は平和そのもので、見るだに心癒されるものでした。
家々の外壁は土色のままの他、原色で彩られたり飾りが付いているものもありました。そういえばナイル川にはワニも棲息しているのでした、小さなワニが飾られている家もありました。

ナイル川を渡ってルクソール西岸へ出ます。川には大きな船が浮いています、これが私たちが乗る船でしょうか。
ルクソールは昔はテーベと呼ばれ古代の王朝期には首都として栄えた場所で、あの世・墓地と考えられていた川の西岸には沢山の王たちの墓・葬祭殿、そして有名な王家の谷もあり、その入り口にあたるのがメムノンの巨像です。像の背景には王家の谷を始めとする岩山が見えます。


メムノンの巨像

                    左側が奥さん→
本当は、何だか聞いたことのある名前アメンホテップ3世の像だそうで、後ろには日干しレンガ製の葬祭殿もあったとのことですが、葬祭殿は後の王が建材として利用したために消滅、巨像もギリシャ統治時代にギリシャの神様メムノンにされてしまった、しかも一枚岩で出来ていた像は地震で亀裂が入り、風が吹けば音がするという悲惨さです。
像は二つ並んでいるので男女のペアかと思うとそうではなく、奥さんの像はエジプトでは大抵は夫の像の足の側面に小さく彫られています。


←ラムセス2世の神殿

↑ミニ・トレイン

ハトシェプスト女王葬祭殿全景→
西側奥へ進むと、まずラムセス2世の神殿、これはほとんど廃墟ですが立派なものが見えます。

続いてハトシェプスト女王葬祭殿です。私はエジプトの女王としてはクレオパトラしか知りませんでしたが、このハトシェプスト女王は紀元前1520年頃のトトメス1世の娘で、トトメス2世と兄弟で結婚し、エジプトが最大の領土を持ったトトメス3世を生んだ人で、エジプトの歴史上重要な人物です。

クレオパトラのような女王もいましたが、どこの国でも女性の王というのは少なからぬ抵抗があるのでしょう、統治の25年余を男装で過ごしたと言われています。王としては均衡外交といって、どこの国とも平和裏に過ごし貿易も盛んだったようで、葬祭殿の正面には外国から移植された木の根が残されています。
が、息子であるトトメス3世からは嫌われていたのでしょうか、彼の即位後、葬祭殿の女性像はすべて壊されたとのことです。

葬祭殿の入り口からは歩いても行かれますが、普通はタフタフと呼ばれるミニ・トレインに乗り、全景が見られる場所で下車し、後は徒歩になります。
エジプトの建造物を建てた人たちは本当に神秘的なくらい方位や天体に詳しく、この葬祭殿では女王の戴冠式のあった12月17日には女王の棺が置かれている二階の部屋に太陽光が差し込むよう設計されているそうです。
私たちが行った日は大変暑く、全く日陰の無い葬祭殿付近では日射病になりそうでしたが、当時この建物を実際に建設した作業員たちも大変だったでしょう、背後の岩山に見える穴は彼らの休憩場所だったということです。

建物は三段のテラスに分かれていますが、日本の団体新婚旅行客を含む大勢の外国人観光客がテロ集団に襲われて銃撃されたのはこの場所ということで、現在は却って恐怖を覚えるほどの警戒、至るところに本物の銃を持った兵士が立っています。

紛らわしいことに彼らと区別がつかない現地人も建物の内部に沢山ウロウロしていて、写真を撮ってくれたり、私の場合は鍵が掛かっている場所を内緒で見せてくれましたが、終わると手のひらを差し出し「お礼」を要求、これがエジプトで一番イヤだと言う人も多いのですが、アジアの一部の国に比べればまだおとなしいと私は感じました。


←レバノン杉の根跡

↑腕を組んでいるのは死後の像


建物から見ると、見渡す限りの砂漠




←内緒で見せてもらった壁画

                  ↑藁屋根


日干しレンガ


女王の葬祭殿を出て休憩を兼ねて特産品のアラバスター工場へ行きました。カンボジアでもそうでしたが、暑い場所では根をつめた観光は無理で、何時間おきかには休憩を入れて涼む必要があるのですね。
アラバスター自体は重いし買う気が無かったのですが、どうなっているのか不思議だったエジプトの屋根をこの建物で詳しく見ることが出来ました。雨が本当に少ないのですね、細い材木に藁を乗せただけでした。また日干しレンガも真近でじっくり見られました。

午後は王家の谷へ。エジプトの長い歴史の中で、紀元前2650年頃から2180年頃までの古王国時代はピラミッド、紀元前1565年頃から1070年頃の新王国時代は王家の谷の王墓が特徴で、そのころの首都だったルクソールのナイル西岸には沢山の王墓が集中していますが、中でも王家の谷は盗掘を避けるための隠れ墳墓と言われるだけあって全ての墓は岩を掘った地下に作られています。
全部で60以上の墓が発見されているそうですが、その内の十数か所が順番に公開されているようです。
域内に入るには入場券が必要で、私たちは一枚で何ヶ所か入れる券を持っていましたが、有名なツタンカーメンの墓は別料金でした。カイロ考古学博物館で見た大量の品々がよく入ったなと感心するほどの小さなスペースでした。後で他の墓に入ってみると、なるほどツタンカーメンは王としては小物、副葬品を取り除いた内部は一番質素でした。

他の王の墓の内部にはそれぞれ特徴はありますが、大体同じ・・・。そんなことを言ってはバチが当たりそうな凝った内装で、当時の人々の死後の世界に対する思い入れの複雑さに感動しました。
どの墓も内部は撮影禁止で、入り口で厳しいチェックがありますが、プロの撮影隊があちこちにおり、許可さえ貰えば良いということのようでした。
見所は沢山あれど暑くてたまらないのでラムセス3世、4世、6世など近場に集中している墓の内部を見て切り上げ、今日からの宿となるクルーズ船 MOON GODDESS へ乗船しました。

涼しくなった夕方、ルクソール東岸のルクソール神殿へ向かいました。ピラミッドでは現実的でなかった建物の大きさが、ここでは圧倒するように迫ってきます。まず第一問塔門の前に立つオベリスク。二本一対だったものですが現在は一本だけしか残っておらず、欠けているもう一本はパリのコンコルド広場にあるとのこと、船の中には積めず、船底の更に下に吊るして運んだとのこと、これは強奪ではなく贈呈したと聞きましたが、現在のこの不均衡な様子を見てフランス人は恥ずかしいあとか返さなければとかは思わないのでしょうかね。


ルクソール神殿第一塔門


ルクソール神殿


カルナック神殿ライトアップ

エジプトでは夜、ピラミッドを始めあちこちの遺跡建造物をライトアップしてショーをしています。私たちも暗くなったのでカルナック神殿へ移動、音楽・お話に導かれて暗闇の神殿内を一周し音と光のショーを体験しましたが、英語がよく聞き取れないし王様の名前や対人関係が詳しく分からないので、充分には楽しめませんでした。日によっては日本語のアナウンスもあるようです。

船に戻ってくるとフロアでベリーダンスが始まりました。ベリーダンスというと薄い衣装を着た女性が体をくねらせて煽情的に踊るものだと思っていましたが、あんまり明るい女性で、そんな雰囲気は感じられませんでした。日本の着物女性の風情が薄れていくのと同じく、若い女性にアラブ独特の妖しい雰囲気を期待するのはもう無理なのかもしれません。

7月17日(土)今日はまず、昨日夜景だけを見たカルナック神殿観光。入り口を入るとスフィンクスの列が続きます。ここのスフィンクルは頭が羊、体は獅子です。
塔門と呼ばれる大きな門のような石積みの裏側には、この塔門を積み上げるために使われたと言う日干しレンガの残骸が残っています。これから、ピラミッドを作るときには日干しレンガを坂のように積み上げて、石を転がしながら高いところへも積んだと考える人もありますが、何トンもある巨石と大人数を乗せるには日干しレンガは少々軟弱すぎないか、という反対論もあるそうです。ここは確実にこのようにして積んだのでしょうか。
カルナック神殿はエジプトでも最大規模ということですが大列柱室には高さ23m、15mの石の柱が何と134本、密集して立っていて圧巻です。昔は塔門には大きな旗が立てられ、柱には鮮やかに彩色されていたとのこと、さぞ重厚、華麗だったことでしょう。雨がほとんど無いエジプトでならば永遠に損傷など無い、と思いたいところですが、残念ナイル川の氾濫という水害のために、特に1887年の大氾濫によって柱は酷く痛んで、彩色も現在ではほとんど残っていません。


カルナック神殿




 ↑建物を高く積むために積んだ日干しレンガ

                         列柱→
日干しレンガはどの程度の強度なのでしょうか。エジプトではピラミッドなど石作りの建造物は随分残っていますが、強力な権力を持っていたはずの王の宮殿が全く残っていないのを不思議に思っていましたが、どうも宮殿も日干しレンガで造られていたようで、長年の風雨で崩壊した模様です。


トトメス1世と
ハトシェプスト女王のオベリスク
また地震が多い国で紀元前27年、紀元後35年、450年の三大地震の被害も大きいようです。紀元前27年の地震は震度11だったというのですが、どうやって測ったのやら。

カルナック神殿はエジプト文字の解読で知られるシャンポリオンの書いた字が塔門の壁に残っていることでも有名です。
この後は香水店へ寄りました。香水は自然の植物から採ったものが多く、癒し効果もあるようですが私が興味を持ったのは色とりどり形さまざまな香水瓶でした。
ベネチアでも同じような色ガラスが作られていますが、エジプトとベネチアは聖人サン・マルコを通じて浅からぬ因縁、アレキサンドリアに埋葬されていた聖人の遺体を十字軍が盗んで運んだ場所がベネチアですから、ガラスの技術もその時に伝播したのでしょうか。


香水瓶

この後船に戻って、いよいよクルーズの開始です。
以前、旅行関係の雑誌にナイルクルーズの時にエンジン音に悩まされたお客からの苦情が載っていたので、どんな船かと心配していましたが、私が体験した限りでは睡眠中は船は動かないし、動いていても音は気にならない立派な船でした。治安の問題もあり、熟年になると毎晩移動も負担ですから、私はエジプト旅行にクルーズは非常に良いと感じました。
願わくば、もう少し長い旅行期間が欲しいですね。同じ船に乗っていたイタリア人のグループは近くから来たのに全行程2週間、日本からだと遠くからの移動も入れて11日くらいですから。

私たちが乗った船は MOON GODDESSですが乗船地には系列会社のらしい沢山の船が繋留されていました。船内には売店やバーなどもあり、冷房が効いていて快適でした。朝食、昼食はバイキング、夕食はコースで食品の種類は少々少なめですが安心して食べられるのが良いですね。

私は今回の旅行では、クルーズ航行中に見た沿岸の人々のゆったりした生活ぶりが非常に印象的でした。
氾濫するということから泥の川という印象が強かったナイル川ですが、沿岸は「水郷」と言う表現がピッタリの美しさで、のんびりしたたたずまいは、まさに癒しの航路でした。

雨が降らないからでしょう、目に入る家は「三匹の子豚」を連想するような日干しレンガと藁の家、中も丸見えですが家具はな〜んにも無いのですね。
藁で葺いた屋根は物置も兼ねているらしく枯れ枝が雑に置いてあるところ、鶏を飼っている家もありました。
ちょっと大きい2,3階建ての家もありますが、これがまた作りかけのように柱の頂上の始末がしてなくて、伸びたまま、ほとんど全部の建物に穂先が出ていました。


完成した家




これも完成した家

のんびり部屋でごろ寝していたら外が騒がしくなりました。ドック到着です。アフリカの奥地から流れ下ってくるナイル川には当然高低差があり、クルーズには水位を調整するドックが不可欠です。大きなドックですから船が通るたびにドックを操作するのではなく、時間を決めて船が集まったところで一度にドックを通すので、屋上に出てみると沢山の大型船が集合していました。
クルーズ船が沢山集まってしかも動かない、これは商売のチャンスですから、外には物売りの船が出てきて、大声で叫びたてています。売り物を投げて音を立てるのですが、中には投げすぎてベランダに物が落ちて貰ってしまった部屋もありました。

しばらくするとドック通過が始まりました。まず向こう側から船が次々にこちらへ向かって進んできます。船の甲板にはお客さんが沢山出て通行の様子を見守ります。ドックは船を入れたまま水位を下げ始めました。ドックの中で静止している船のそばには野良犬がやってきました。船員さんが何か食べ物を与えています。
向こう側からの船が通り抜けると今度はこちらから、ズラリと並んでいた大きな船が次々とドックへ入っていきます。他の船が見守る中、スムーズに入っていけるか操縦士の腕の見せ所です。
この日の夕方はカクテルパーティー。お酒が苦手な私は部屋で手紙書きに専念しました。

7月18日(日)朝早くエドフに着岸、道には痩せた牛に引かれたカートが走り廻っています。みやげ物売りです。ここはアレキサンダーの流れを汲むプトレマイオス王朝の時代にはエジプト南部の首都だったところで、保存状態が非常に良い巨大な神殿が残されています。
下船した私たちは数人ずつ馬車に乗りエドフの神殿へ向かい、土産物屋が一杯の入り口から中へ入ります。ここが頭がハヤブサで体が人間のホルス神を祭る神殿ですが、何と大きな建物なのでしょう。入り口から正門へ向かうまで、壁に彫られた沢山の像を見ながら進みます。 

正面には神殿のシンボルである大きなハヤブサの像、でもこれは13世紀、6世紀と他の遺跡に比べると新しいものです。塔門の外側には例のごとくオベリスクが二本立っていたのだそうですが、一本はバチカン、一本はパリにあるとのこと、ヨーロッパは何でも盗って行くとガイドさんは怒っていました。

内部に入ると広場にはまた沢山の柱が立っています。岩山があるにはあるけれど、どうしてこんなに岩の柱が好きなんだろうとちょっと不思議ですが、少なくとも木材というものは無かったのですから、建物を飾るにはこれしか無かったか・・・。建物内部はローマ時代、迫害されたキリスト教徒が隠れ住んだ折に煮炊きしたため煤けて黒くなっています。
遺跡の周りには未発掘の土塁が広がっています。エジプトは古代と現代が完全に別世界であることをしみじみ思い知らされます。
帰ろうとすると保育園の遠足でしょうか、可愛い子供たちが集団で現れました。宗教によっては写真を撮られるのを嫌がると聞いていたので引率者に聞いてみると、喜んで全員でポーズ。
私たちの後から来た人たちも子供たちに手を振ると、子供たちはまたポーズ、でも写真を撮らないのでガッカリしていました。


大きな塔門


壁には彫刻がいっぱい


可愛い子供たち
外に出るとお土産屋が待ってましたとばかり押し寄せてきました。日本の感覚から言えばバカのような値段、1ドルの服とか10ドルのネックレスとかに惹かれて店内に入ると、もっと良いけれど高いものを勧められる、今晩のパーティーに備えて買った人もいました。
戻りも馬車。来る時と同じ馬車に乗るように言われていましたが、それでも乗れ乗れと沢山の御者に迫られました。


神殿の周りの土塁


安い服が一杯


子供の御者も

再び船に戻って、沿岸のノンビリした風景を見ながら進みます。私たちが考える幸せとは随分違うのでしょうが、まさに「知足」、欲張らなければ平和な日常が一番、というのを見せつけられたように感じました。


釣り


豪邸?


バナナ畑
午後にはコム・オンボへ着きました。船から遺跡が直接見えます。エドフと同じような沢山の服を吊るした露店が並んでいます。その押し売りの間を抜けて登る神殿はエジプトのファラオ・トトメス3世の神殿の上にギリシャ神殿が建てられ、更にその上にローマのトラヤヌス帝の彫刻がある、という具合で随分外国勢力に荒らされたとのことです。

←コム・オモンボの遺跡と物売り


↑キリスト教時代の住居跡
   お産のレリーフ。既に座ってのお産の方が
                  楽と知っていた→


↑医療の解説らしい


登っていく途中にはキリスト教時代の街の日干しレンガの痕跡が残っています。約220年前にはシャンポリオンも来たというこの場所近辺はワニが棲息するとかで、それを克服するために建てられた神殿でもあるとのこと、広場の片隅には巨大なワニのミイラが保存されていました。
壁には様々な彫刻がされていますが、ここはお産の道具など主に医療関係のテキストが多く、エジプトの国民病である糖尿病の治療法も描かれていたけれど、外国が持っていってしまったとのことです。
エジプト人は甘いものが大好きで、現在も国民の13%が糖尿病と言われているそうですが、これは古代からのことなのですね。


←←ワニの彫刻

↑蛇も居ました

       ロバと記念撮影。1ドル→


明日には下船なのでその夜はパーティーがありました。全員がアラブ風の衣装を着て甲板でバーベキュー。衣装は10ドル余りで買った人、船内のショップで買った人、借りた人、持参のものを着た人さまざまでした。船内のショップではアラビア風の化粧もしてくれました。

7月19日(月)
朝焼けを見ながらヒョイと船の下を見ると小さなボートの中で男性が一生懸命掃除をしていました。後で分かったのですが私たちが乗る船でした。いよいよアスワンに着き、有名な大きなダムがあるのでクルーズ船はここでお終い、私たちはもう少し小船に乗って進むのです。イタリア人のグループはダムの向こう側から別の船で改めてクルーズ開始だそうです。羨ましい・・・。

綺麗に掃除された船に乗り替え更に進みます。水辺は相変わらず美しくノンビリ。遠くに見える遺跡はキリスト教会、エジプト人のお墓もありましたが、これは新しい。その他にも訳の分からない遺跡が沢山見受けられます。アガサ・クリスティの小説「ナイル殺人事件」のモデルになったホテルも見えました。日程に余裕があると泊まることが多いそうです。
予想した通り、船内ではみやげ物の販売が始まりました。手作りの素朴なネックレスや手提げ袋、あまりに安くて心配でしたが、いかにもアフリカらしいのを数点買いました。


暢気な水辺


遺跡もいっぱい


「ナイル殺人事件」のホテル

上陸したアスワンは「市場」という意味から転じた地名とか、香辛料を始めとするアフリカの物産、動物などの市があったそうです。



←暑くて立てない?犬

←↑作りかけのオベリスク。
上から見ると切れ目が入っている
間もなく目の前に大きな石切り場が現れました。古代からの赤花崗岩の石切り場で、そこには作りかけのオベリスクがあります。作っている最中に失敗し放棄されたもので、膨張する木の楔(くさび)を利用して石を割った古代の作り方がよく分かるということです。どれほどの数の木の楔を使うのでしょう、それとももう磨かれたのか、面はほぼ完全に滑らかになっていました。
木陰が全然無い石切り場、あまりに暑いので犬がグッタリしていましたが、その寝方がおかしくて・・・、石の窪みにピッタリ入って石と同化しているのです。イタリアのポンペイ遺跡に行った時、そこの犬も全く同じように涼を取っているのを見ました。この格好は暑い場所の犬の特徴なのでしょう。
そこからバスに乗ってアスワン・ダムへ向かいました。ナイルの氾濫をコントロールするためには大きなダムが必要でした。元々は115年前にイギリスが作ったオールド・ダムがありましたがナセル大統領が新しいダムを作ろうと考えた時、沢山の遺跡がある流域での大工事に世界は冷淡でした。アメリカにも世界銀行にも断られ途方にくれているとき、協力を申し出たのはロシアだったそうで、今もエジプト人は感謝の気持ちを持ち続けています。ダムの近くには今もロシア大使館があります。


アスワンハイダム
ダムの建設には10年間もかかり、その間に大統領はナセルからサダトへと交代、4300万個の赤花崗岩を使い水門24個、幅3,8kmのダムが出来上がるに際しては、この地方の原住民ヌビア人の村やヌビア神殿が水没、ダム湖・ナセル湖にはカラプシャ神殿が沈んでいることは知られていますが、アブシンベル神殿を水没から救うために最終的には国連主導で世界中が協力することになりました。
あらゆる方面に当時の科学の粋を導入したアスワン・ハイ・ダムですが、堆積する砂でそろそろ危なくなってきているようです。


←コガネムシの足跡

      ↑塹壕に隠されたタンク

                 美しい風紋と青空→
ここからはアスワン・クルーズが出発しますが、私たちはパスして砂漠へ向かいました。もちろん見渡す限り砂漠なのですが、砂を取るために途中でバスを停めました。
砂は文字通り「黄金色」の美しいもので、美しい風紋のついた表面にはエジプトの幸運のお守り「コガネムシ」が走り回り、その足跡もついていました。

そこからアスワン空港へ向かいました。アスワン空港はエジプト空軍も利用しているとのことで、空港には戦車を隠した塹壕が見られました。
平和な日本から来た私たちには現実的ではありませんでしたが、すぐ隣の国々では年中戦争をしているし、国内でも民族・宗教紛争を抱えるエジプト、アスワン・ダムではビデオ撮影が禁止だったのも紛争国ならなのでしょう。

空港は近代的、トイレはチップを払わないと紙が使えない、というわけで持参のトイレットペーパーが登場しました。

アブシンベルでは空港から神殿まで無料シャトルバスが出ています。というより、このような公共交通機関やホテルからのシャトルバスを使う以外に個人的に神殿に到達するのは難しそうです。飛行機から降りた全員がシャトルバスに乗って出発しました。
神殿の入り口近くにはかなり沢山の、そしてエジプトでは珍しい、ちゃんとした建物の土産物屋が並んでいます。そこからは湖沿いと神殿裏の二本の道が神殿へ通じています。


アブシンベル全景。向こうがラムセス2世の
大神殿。手前が小神殿。


大神殿正面。高さ20mの巨像。
下のほうに人間の頭


ラムセス2世の巨像の大腿部に掘られた
夫人の像

アブシンベル神殿はアスワン・ハイ・ダムが出来る際に水没の危機に瀕しましたが、前述の通り国連・ユネスコが国際キャンペーンで救ったもので、赤花崗岩で出来た神殿を運搬可能な大きさに切断し、15年かけて元の位置より約60m高い場所に再構築したものです。
ラムセス2世の像は高さ20m、その大きさは言うまでもありませんが、移築前には彼の即位の日に神殿の一番奥まで日の光が入るように設計されていたのを、移築後には一日のズレはあるもののやはり奥まで日の光が入るように神殿が設置されたとか、科学の素晴らしさに感嘆しました。
また移築後の神殿は力学上の安全性から背面全体が大きなドームになっており、その中に神殿がコンクリートで支えられているとのこと、古代とは違った科学が応用されているのです。

この場所はエジプト最南部、スーダンにほど近いのですが、今から3300年前の古代の王ラムセス2世は強大な力で首都からはるか離れたこんな場所にも神殿を築かせていたのです。ネフェルタリというエジプトで一番人気のある古代の女性が奥さんですが、この人はヌビア出身、つまりこの辺りの人だったそうです。
ラムセス2世という王はルクソール神殿、カルナック神殿にも大きな像が残されており、本には自己顕示欲の強い人だったと書いてありますが、建設王と呼ばれる彼の作った神殿の中でも最大のものがここアブシンベルです。
古代エジプトと近・現代のエジプトでは歴史に大きな断絶があるようで、この大きな神殿はすっかり砂に埋もれて忘れられており、19世紀初頭に初めて発見されたということです。
湖側から見て左側がラクセス2世の像のある大神殿、右側が夫人ネフェルタリのために建てられた小神殿で、内部は撮影禁止になっていますが、一部撮ってしまいました。
ラムセス2世という人はモーゼと同世代とのこと、昔見た映画「十戒」でユル・ブリンナーが演じた王様のようです。またモーゼがユダヤ人を引き連れてエジプトを去る時、紅海が割れてユダヤ人が通り、後を追ったエジプト軍が海に入ると潮が戻って皆溺れてしまう場面がありましたが、このとき追って行ったのがラムセス2世の32番目の息子で、現在も保存されている彼のミイラは表面が白く、これはこの時に塩水の中で溺死したせいと言われているそうです、ホントかしらん。
暑い暑い観光でしたが、神殿の正面は湖、美しい青い湖面は心癒されるものがありました。

←小神殿内部の柱


小神殿内部の壁画。ラムセス2世の戦勝の様子
この後同じ道を通って再びアブシンベル空港から空路カイロへ向かいました。上空から見ると、本当にナイルの沿岸だけが緑の耕作地で、その外側が広大な砂漠であることが良く分かります。
カイロ近くで突然「左下にピラミッドが見えます」とのパイロットの声、ギザ上空を飛んでいたのです。天の川とオリオン星の配置になぞらえてある、と言われる三つのピラミッドとナイル川、夢中でシャッターを切りましたが、エジプトの空気はいつも霞んでいるんですね。
カイロに着いて、今日の夕食は日本食と言われました。海外での日本食は高いかまずいかのどちらかなので私は好きではありませんが、エジプトでは・・・、やはり材料を集めるのが大変なのでしょうね、松花堂のような箱に入っていましたが量が少なくてちょっと驚きました。多分とても高い食事だったのでしょう。
日本食レストランの入っているショッピング・センターはホテルのすぐ隣で24時間営業、おみやげ物が沢山ありました。

7月20日(火)今日はエジプト滞在最後の日。終日自由行動でカイロ市内観光・買い物に出かけた人もありましたが、私はカイロ郊外のピラミッド巡りに参加しました。


←カイロ市内の大通りに立つラムセス2世像

          ↑屈折ピラミッド






真ん中の辺りの穴が入り口。
かなり登る






カイロの大通りには巨大なラムセス2世の像が建っています。日本人の私たちに取ってエジプトの王と言えばツタンカーメン、クレオパトラ、またはピラミッドが一番大きいクフ王でしょうが、エジプトに来てみると一番有名なのがこのラムセス2世ということが良く分かります。最初の王から見れば歴史的には一番新しい時代ですが、エジプト独自の王朝の最後の輝きである点でも人気があるのでしょう。はっきりした肖像が残っていない古代の王に比べて、エジプト中に彫刻が残っていて作りやすい、ということもあるかもしれません。
ギザの大ピラミッドのそばを通って南下するナイル川沿いの道をサッカーラ街道と呼ぶようですが、特徴のあるピラミッドがいくつか並んでいます。道沿いの村々はカイロの近代高層ビルから僅かな距離とは信じられないくらい、古代の面影を残した「超」素朴なもの、イスラムの香りがプンプンします。

まずはアブセール村にある高さ80mのアブセール・ピラミッドを通過。ここは保存状態が悪く、大ピラミッドのようなシャープな線は完全に崩れてしまって、日干しレンガの堆積みたいです。

続いてダフシュール。ここには大ピラミッドを作ったクフ王の父スネフェル王の二つのピラミッドがあります。彼は全部で4つもピラミッドを作り、そのお陰でどうやってピラミッドを作ったかを推察することが出来るのですが、ピラミッドがお墓だとしたら何で4つも・・・。
有名な屈折ピラミッドは化粧板が剥げ落ちてみっともない感じですが、高さ105mの途中から角度が違っていて、最初の鋭角ではうまく出来ないので途中から石積みの角度を変えたのではないかと想像されていますが、正確なことは不明。
この辺りはやはり赤花崗岩が取れるのか、砂漠も赤いところに赤い石で作られたピラミッドがあります。屈折ピラミッドの経験を生かして作られた最古の二等辺三角形のピラミッドと言われています。ここは中に入ることが出来、その内部の通路も赤い石で出来ていました。



持ち送りの天井
今までの遺跡訪問では内部に小さな電気が点いていたので油断して手ぶらで入ったら、ここは電気が点いておらず真っ暗で、入り口から遠くなると手探りで進むことになり恐ろしい思いをしました。終点らしい場所に着いて思いついてカメラのストロボを点けると、なだらかな外見とは全く違う鋭角の天井、「持ち送り」とかいう積み方で石が少しづつ内側にずらしてある天井は、その上に想像もつかないほどの重さの石が積んであると思うと恐ろしい・・・。
このダフシュール地区は油田があるそうで、遠くに炎が見えました。また一帯は軍事基地になっていて、駱駝に乗った見張り以外はほとんど無人でした。


警戒の警察官


アラバスター製のスフィンクス
次はメンフィスへ。古王国時代の首都だった場所ですが現在は廃墟が残るだけ、見ものはラムセス2世の巨大な石像です。長さが15mもある像が建物の中に寝かされていて、全体を見るには二階へ上がります。こんな所にも抜け目の無い人が屯していて、写真を撮っていると「こちらの方が上手く写る」と教えてくれるのですが、そこへ私が移動すると「バクシーシ」とお礼を要求するのです。

この建物の外庭にはメンフィスで一番有名なアラバスター製のフィンクスがあります。雪花石膏と訳されるアラバスターですが、天日に晒されたせいか、とてもそんな石には見えませんでしたが、大きなギザのスフィンクスよりはお顔がはっきり残っています。


ラムセス2世の巨像
昔は首都だったこともあるメンフィスですから、ここを出るとすぐ、昔の建物跡を通過します。でも悲しいかな日干しレンガ製なので、幾年月を経て今はホント、ただの土塁です。昔の王族の宮殿も同じ運命を辿ったのでしょう。

←昔の王宮跡
ナイル川で水を飲むヤギの群れ→
次はメイドゥームのピラミッド・コンプレックスです。ここには有名な階段状のピラミッドがありますが、その周りにも様々な遺跡があり、中心となる階段ピラミッド近辺は遺跡の建物や巨石を利用した近代的な建物で囲われています。
←ピラミッド・コンプレックス
     階段ピラミッド→
様々なピラミッドを堪能した後再びカイロ市内へ戻り、買い物をしたい人のためにMETRO という地元のスーパーに寄ることになりました。他の国ではこの手のスーパーに入ると土産物が安く買えるのですが、ここではそれは期待はずれに終わりました。ごくごく普通のスーパーで色とりどりのフルーツなどはいかにも南国エジプトらしかったのですが、それは買えないし、そのほかの品物は外国と大差なしでした。
このスーパーは町の大通りに面しており、バスを停めるのが大変でしたが、収穫無し。写真も撮ってはいけないということで、ガイドが掛け合ってくれたのですがフルーツの写真もだめでした。

ホテルへ戻ってチェックアウト後、自由行動だった人たちと合流し、バスに荷物も積んで昼食のためにナイル川に浮かぶレストランへ行きました。メイン料理は「ハト」ということでした。普通に見かける土鳩と違って食用に飼育されたもので、エジプト以外でもよく見かけられるものですが、鳥が小さいので骨ばって感じられ、肉は少ないようでした。他のメニューはバイキング。
食事の最中に、さっきまでホテルでテレビを見ていた人から、東京の今日の温度が40度と聞かされてビックリ、エジプトは暑くて最初の日は40度以上で、「熱さまシート」を額に貼り付けて観光した人や、熱射病になった人もいましたが、それでも今日は38度、熱暑のエジプトより暑いとは温暖化現象も極まれりと皆で感嘆しました。

食後は最後の観光・ショッピングに有名なハン・ハーリ市場へ。ここは全ての土産物が揃っていてしかも安い、と噂で聞いていましたが、ホント。結構高価だった色つきガラスの香水ビンなども、ここでは一桁違う感じで、最初にここに来ていたら観光中には何も買わなかったかもしれません。でも最初にここに来たら、何も知らないので何も買えなかったかもしれませんし、後悔しても二度も来ることは無いので、私たちのように最後に来るのが正解かもしれません。こういう順序を決めるのも難しいものですね。


ハン・ハーリ市場の水パイプ


水パイプと民族衣装の店


こちらはカイロ一般市民の市

アラブのスークのような通りを、押し売りの間をすり抜けながら見て廻り、それでも皆何かしら買いました。世界中の観光客が押し寄せている感じで物凄い混雑、商店の二階は細かい格子のついた窓で、ハーレムを思わせる妖しい雰囲気、この雑踏の中にもホテルがあり、車で乗り付ける人もいて驚きです。


イスラムらしい猥雑な住居


  旧市街のイスラム寺院↑    →チベット寺院
最初の日と同じ道を通って空港へ向かいます。高速道路から見たらハン・ハーリ市場とは違う雰囲気の市場がありました。カイロ市民の市場だそうです。空港への途中には何とチベット仏教の教会というのが場違いな感じで立っています。とにかく宗教色無しでは暮らせない人たちなのでしょう。
カイロ空港の出発口は多分到着口と違う場所なのでしょう、全くモダンな感じでがっかりしました。
乗った時間は既に夜でしたので復路はずっと外も暗く、私はここまで来てようやく熱射病の症状が出たようでしたので、機内ではずっと熱さまシートを額に貼って寝ていました。機内は来るときよりは随分混んでいましたが、それでも夏ですから60%くらいの乗車率でしょうか。

7月21日(水)昼過ぎ、成田に着きました。熱さまシートのお陰で、グッスリ眠れ、快適な到着第一歩でした。

汚いトイレが苦手の私、出発前には及び腰でしたがトイレは大丈夫でした。「悠久」を絵に描いたような静かな佇まいのナイル川生活にすっかり魅了されました。エジプト、お勧めです。


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