| 訪問地は トロワ シャロンアンシャンパーニュ ランス アミアン パリ というコースです。 |
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明日は東駅からトロワへ向けて出発の予定ですから、東駅では時刻表を入手。ユーロスターの乗り入れを機に大改装なってモダンになった北駅と違い、東駅は古色蒼然たるたたずまい、何と鉄の塀と門まであるのですね。終電の後は閉めるのかしら? 駅舎にはホテルもついています。
時刻表を宿まで持ち帰って、じっくり見てビックリ。日本で見たトーマスクックの時刻表が信じられなくて、わざわざ時刻表を確認に行ったのですが、パリからトロワまで、所要時間は1時間半程なのですが、間隔が凄い。7:14の次は9:45、その次は13:15、15:15・・・。時刻表無しではとても行かれません。 以前パリからオンフルールへ行った時、同行の人が「一時間に三本くらい」と言ったのを信じて時刻表も見ずに駅に行ったら、三時間に一本しか無くて酷い目に遭ったのを思い出しました。 辺鄙な田舎なら兎も角、パリから、行く先も結構有名な町なのに。東京近郊で、頻繁に来る私鉄を愛用している私は、時刻表など見もしないで駅に行ってしまいますが、ここでは時計と時刻表が必携です。 トロワで一泊の後はランスへ行く予定で、ここもパリから近く、しかもトロワとは同じ環状(車)線上なのですが、二都市を繋ぐ列車の便は無く、それでも列車を利用するならば一度パリまで戻って同じ東駅から再度乗るしか方法が無いらしい。時刻表を見たらパリへ戻って、同じ東駅で4時間ぐらい待たなければならず、一日仕事になりそう。ままよ、明日は明日の風が吹く、先のことはトロワで考えましょう。 |
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そこから少し行くと市庁舎前の広場にでますが、ここは木組みの町トロワを象徴するような、視界一杯に木組みの家があり、その全部が現役で使われています。広場の一角はレストランのテラスとしてテーブルや椅子にパラソルが華やか、夏の夜は更にムード満点のようでした。
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さて、ホテルへ戻ってみると何やら駅前が騒然としています。パトカー、白バイ、大勢の警官が駅を囲んでいるのです。駅前のバス停で明日の時刻を確認したいと思いましたが、今はダメと警官に強く押し返されました。車も駅前へは進入禁止。見ていると制服警官以外に、私服(Tシャツ!)に「鉄道警察」と書いた腕章をした人もいます。その辺りの住人なのでしょう、緊張の中にも周りの人と話しながら笑いも漏れます。警官と抱き合って挨拶している人もいました。
爆弾情報があったらしい、とのことですが、電車が二本通過した後、何だかわからないうちに警官は次第に数が減り、群集は解散になりました。
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チェックイン後、再び街に出ました。大通りから駅への入り口には、ロータリーに大きな石像が立っています。それに沢山の三色旗がなびいて綺麗なこと。旧市街から路一本隔てた場所、市バスのターミナルのような所に行くと、その前にある大きな広場には真新しい花輪が供えられています。戦士たちの慰霊碑です。
大昔から国内、近隣国と、近代では二度の世界大戦に巻き込まれたヨーロッパの国々、その何処に行っても感心するのは、戦死者たちの慰霊碑が今も人々の生活の中に現役として生きていることです。特にフランスの5月は、ナチス・ドイツ軍の占領に心身共に苦しんだ第二次大戦が終わった時期であり、慰霊碑は文字通り花束で埋まります。 いやでも、時々日本の各地で遭遇する「忠魂碑」の寂しい有りようと比較してしまいます。日本の若い人たちの中には、日本がアメリカと戦争をしたことも知らない人がいるなどと聞くにつけ、ヨーロッパのこの美しい慰霊碑は、若い人たちによってどのように受け継がれていくのだろうと考えました。 バスターミナルの近くには市場もあります。フランス中みんな似通った建物で、中もあまり変わり映えしませんが、チーズ、ワイン売り場などには地方独特の物が見られます。この時期は「白アスパラガス」が沢山出ていました。郊外へ行けばスーパーもあるのでしょうが、この市場で果物や肉を量り売りで買っているオバアチャン、迷い迷いですから時間もかかるのですが、良い風景ですね。 |
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4月30日
一日にたった二本しかないバスに乗るのですから心配で、早起きしてホテルの窓からバス停を睨んでいました。一本目は6時30分ですが、6時15分にはバスが来ましたので一安心。お客はたった3人でした。
今日は朝から大雨。私が乗るバスは11時30分なので、それまでの間、もう一度町を見て、と考えていたのですが、余りにも凄い雨にウンザリして、しばらく部屋で様子を見ることにしました。
テレビをつけると、日本の朝と同じようにニュースの中で季節の情報、今朝は市場にレポーターが行っていました。日本と同じようにスタジオのキャスターと市場のレポーターが掛け合いで季節の野菜を紹介するのですが、日本と非常に違うのは、2人とも真面目でない(?)こと。レポーターは真面目な顔をしながら野菜や果物を食べるまねをしたり、市場の人とふざけたり、スタジオのキャスターはリキの入ったレポーターのしぐさを茶化したり、いなしたり、最後には2人が口笛を合奏、とまあ日本ではあまり考えられない様子でした。
世界ニュースではさすがに SARS のことが報道されていましたが、やはり遠い、別世界の出来事という印象でした。
大きく取り上げられていたのはイスラエル・パレスチナ問題で、ヨーロッパの人にとっては、やはりイスラム・イラクより大きな問題なのでしょう。
また、ローマ法王のスペイン訪問が大きく取り上げられていたのも印象的でした。法王にとってスペインは居心地の良い国の第一のようで、車で進む法王の行列の周りを大勢の信者が走って従う様子や、集会に老若10万単位の人が集まったなどという報道がされていましたが、それを大々的に報道するフランスも、やはり人々の心の基盤はキリスト教であると再認識しました。ちなみに帰国後日本の新聞を見ましたが、法王の動静は小さな記事が一つでした。
次は天気予報。こんな大雨とは予報してなかったようで、日本と同じく可愛いお姉さんの予報士が謝っていました。今日から後も上天気とは言えず、時々雨が予想されるとのことでした。
雨は中々止みません。荷物が重くなるのでガイドブックを買うのは程ほどに使用と思っていたのですが、退屈なので駅前の観光局へ出かけました。
教会のガイドブックを買って外に出ると、思いがけず日本の女性が追いかけてきました。
トロワは豊なフランドル地方とイタリアを結んで、ローマ時代から交通の要衝、商業の中心地として栄えた町ですが、羅針盤が発明され船での交易が盛んになるにつれて衰え、今ではシャンパン以外に見るべき産業が無いのですが、ガイドブックによれば、18、19世紀に盛んだったリボンやレース、帽子などの手工芸工業がフランス有数のプレタポルテ(高級既製服)工場に変わり、近郊にはブランド品のアウトレットセンターが出来て人気を集め、パリから大勢買いに来るとのことでした。
私を追ってきた女性も、アウトレットセンターに行くためにパリから日帰りでやってきたとのこと、観光局で教えてもらったバスを待っている所でした。
こんなに電車の便の悪い所までブランド品を買いに来る人がいるのに私は驚き、その女性は、ここまで来てアウトレットセンターに行かない私に驚いていましたが、この町の旧市街は素晴らしいから、待っている間に少しでも見ていらっしゃいと、聖マドレーヌ教会を曲がる所まで教えてあげました。
女性は二人連れで、今晩はパリでサッカー観戦とのことでした。私が今日ランスへ行くと言いましたら、ランスへは去年行った、一番良い宿に泊まったと、宿の領収書を見せてくれました。こういう風に個人旅行を楽しむ人がだんだん増えているのですね。
ランス行きのバスは定刻の大分前に来て待っていました。数人の旅行客の他に地元のお年寄りが何人か乗りましたが、運転手とは顔なじみらしく、走行中ずっと話していました。一番前の席は運転手の私物、孫のおもちゃが載っていて、潰れるからと、私が隙間に手荷物を押し込もうとしたら必死の形相で見張っていました。
ランスへ行くバスはトロワからは二本だけですが、途中のシャロンという町からは夕方遅くにもう一本出ているとのことで、そこにも寄る事にしました。
道中は畑の中の小さな集落に点々と停まって行くのですが、この不便なバスに乗り降りする人が頻繁にいるので驚きました。途中には12世紀の教会もありました。
シャロンアンシャンパーニュChalons-en-Champagne の町の入り口には古びた風車、駅は町外れの寂しい所にあるので、観光客は皆、旧市街のバス停で降りました。目の前にある教会の大きいこと、ビックリしました。シャンパーニュ地方の教会はどれもとても大きいのですね。
この町はこの地方の行政の中心地ということで、なるほど人々に田舎のノンビリさが欠けていると感じるのは私の偏見でしょうか。車が沢山走っていて、バスはチンチン・バスでした。中心の広場にはアラブ人の露店が並んでいる所を見ると、人口も多いのでしょう。
トロワの観光局であらかじめ地図を貰って来たのですが、最初に見た教会のあまりの大きさに度肝を抜かれて、しばらく呆然としていました。気を取り直して、まずは観光局へ。
この町にはトロワほど沢山の木組みの家は無いけれど、観光局は立派な木組。だれでもがしっかり休むお昼休み中らしいので、仕方なく、入場時間に制限の無い、屋外の観光から始める事にしました。
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マリーアントワネットがフランスに嫁いでくる途中通ったということで、町はずれには歓迎のために造った門があります。そのときは大歓迎だったのですね。皮肉なことに、革命時、逃亡を図った国王夫妻が捕縛されたのは、ここから25kmの所ということです。 門の側には「城」という名の建物があって、婚礼などのパーティーに使われているようでした。門の中も外も、周りは官庁街という趣で、ルネサンス風の建物に混じって近代的なものも見られました。 続いて St Alpin教会へ。修理中で入れないとのことでしたが、ここも大革命時に破損されたとかで、外観の痛みようは酷いものでした。 この町のサンテチエンヌ大聖堂はシャンパーニュ地方でも屈指のものとのことで行ってみました。ここは他の教会と違い正面はギリシャ神殿のような列柱になっていますが、その大きいこと、階層になって区切られていない分、尚更大きく見えるのでしょうが、たまげました。内部はここも修理中とのことで、案内が居ないと入れない・・・、探したのですが見当たりませんでした。外部の傷み方も相当なもの、壊れた所から雨が入るのでしょう、苔ともカビともいえないものが一杯で、ますます破損が酷くなりそうです。これも大革命の置き土産とのことです。 |
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グルグル外を廻りながらもがいていたら、正面の方で何やら旗や太鼓を持ったオジさんたちが集まっています。日本人の知り合いがいるという中の1人が話し掛けて来ました。
まず、「日本人なのに何故マスクをしていないのか」と言うので、「SARS
が流行っているのは中国で、日本とは別の国」と言ったのですが、分かったかしら。
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今度は私が、何をしているのかと尋ねると、今日はナポレオン三世の時代にメキシコであった戦争の、何やら記念日なのだそうです。スペインの統治力が衰えて治安が安定しなかった当時のメキシコへ、ナポレオン三世の提案でハプスブルグ王家の次男(最後の皇帝フランツヨーゼフの弟で領国が無かった)を王として送ったけれど、反乱軍に囚われて王妃共々殺された、という話は歴史で読んだ記憶がありますが、こんな所からも出兵していたのでしょうか。
おじさんは私がカメラを持っているのを見ると喜んで、歩き出しても盛んにポーズを取り、私も立ち去り難いことになってしまいました。新聞記者のような人が1人来ていましたが、それ以外にはカメラを持っている人も無く、こんな記念すべき日にもカメラを持ってこないのかと、驚きました。あちらにすれば、やはりカメラを持っている日本人、と思ったかもしれません。
見ていると、乗って来たらしい消防自動車が放置されていたり、バラバラ遅刻する人がいたり、何ともノンキなことですが、全員が揃うのを待っている間に、雲行きが怪しくなり、一番年長らしい老人がヨタヨタ歩きながら花束を供える頃には、嵐のような強風と土砂降りになってしまいました。オジサンはその雨にもめげず、持っている旗の写真を撮るように私に要求、強風で傘もさせず、お陰で私は全身ずぶ濡れになってしまいました。
喫茶店らしきものも見当たらないので、雨宿りに再び観光局へ。ここで呉れたガイド本はトロワと同じ形式で、同じく大変簡潔にポイントを押さえてあり、役に立ちました。雨が小止みになったので外へ出て昼食にしましたが、この店では日本から来たのならばSARS
は大丈夫でしょうね、と確認されました。
次はバス停そばのノートルダム教会。サンチャゴ・デ・コンポステラ巡礼路の表示がしてりますが、外壁の損傷は更に酷く、石像の頭も大半が取れていました。内部はステンドグラスが美しいのですが、誰もいないので少々恐ろしくなりました。
ランス行きのバスは17:30発。到着は8時過ぎですが、夜は9時過ぎまで昼間と同じ明るさですから、あまり不安はありません。
やってきたバスの運転手はやはり自分の荷物で最前列の席を占領、ラジオを聞きながら鼻歌交じりの運転の最中も、美人の運転する自家用車には必ずちょっかいを出すという、日本では考えられない態度でした。考えられないと言えば、フロントガラスに大きなひびが入ったまま、というのも日本では考えられませんが、ヨーロッパではよく見ます。このバスもそうでした。
一日に何本もないこのバスを通学に使っている人たちもいるのですね。「テクノシティー」ともいう停留所がありましたが、周りには工場・研究所と思しき建物が沢山。その一角にある学校は工業高校のようでしたが、そこからランス行きには沢山の生徒が乗りました。休日はバスも学校も休みです。
途中の沿線は菜の花が満開で美しいこと。カメラを出して夢中で撮っている私を運転手は不思議そうに見ていました。
ランスには郊外に小さな小さな空港があるのですが、最近は日本と同じく地方発の飛行機が流行っているらしく、何と「ランス空港発ロンドン行き片道9.99ユーロ(\1300くらい)から、毎日運行」というビラが出回っていました。行く先はロンドンでもヒースロー国際空港ではなく、スタンステッドというローカル空港ですが。
ランスの市内に入ると、名物のシャンペンの会社が並んでいます。
普通ワイナリーと言うと、見渡す限りのブドウ畑の中にシャトー、という田舎風景を思い起こしますが、ここでは市のかなり内部までブドウ畑が食い込んで、しかも畑が豪邸風の高い塀に囲まれているので、中がチラリと見えたときには驚きました。
シャンペンはワインの中でも高級品ということでしょうか、ワイナリーもちょっと格が違う立派なたたずまいです。
町の真中に来て、大聖堂前で大半の人はバスから降りました。これまた豪壮な大建築で、明日が楽しみです。
私の宿は駅の真横の Hotel Ibis 、安くて清潔で足の便が良く、このチェーンを愛用しています。
5月1日
フランス中を巡るうちにフランスの歴史に興味を持ち、団体旅行の折には参加者に王の系図を配ることにしている私にとって、歴代国王が王と認められるために必ず訪れたランスという町は、ある種の最終目的地と言えないこともありません。その憧れのランスの町の第一日、それが5月1日とは、ちょっとガッカリでした。
日本では一部の人しか関心を持っていないメーデー、これがフランスでは国を挙げての祭日なのですね。以前、初めてモンサンミシェルへ行ったのは4月30日で、明日は教会の観光が出来ないと聞いて仰天したものでした。
モンサンミシェルでは5月1日に本当に教会が閉まっただけでなく、バスも殆ど運休でタクシー利用(至近駅?まで二時間歩いた人もありました)、列車も一本逃したので7時間後、という目に遭いました。稼ぎ時の祭日に何故休むの?とタクシーの運転手に訊いたら、人が休んでいる日に何故働かなければならないの?と反対に訊き返されてしまいました。
フランスに何度も行くうちに日・祭日にも何度も遭遇し、パリ以外の場所では休日には何も出来ないことを、今では納得しています。
休日には全く走らない路線もあるのですから移動は困難、外観だけでも観光するのが無難かな、という訳ですが、短い日程の関係でそれが肝心のランスに当ってしまいました。
早く出て行っても仕方ないので、まずテレビ。相変わらずローマ法王とイスラエルです。SARS
の報道もカナダが入ったり、ミラノでも一人出て、少しは身近に感じているようです。トルコで大地震、アルゼンチンでは大洪水との報道でした。
今日充分に観光が出来ないならば、明日アミアンへ向けて出発する時間も重要なので、まずホテルのフロントに訊いてみました。駅前旅館なのに、電車なんて利用しないのでしょう、アミアン行きの列車なんてあったっけ、という感じで、時刻表など勿論置いてありません。
仕方なく駅へ行ってみると、ジャ〜ン、ありましたが、一日二本、11:13
と 17:29 でした。鈍行で二時間半の行程で、遅い方は到着が夜の8時、まだ明るいのでこちらに決めました。
ランスの近くには Oger という可愛い町があると聞いたので、時間があったら行って見たいと思っていましたが、この調子では車が無ければとても無理ですね。こちらの人には人気の場所のようで、日本出発前に問い合わせてみたら、Oger
の宿の殆どは満員でした。
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休日の市内観光はまず入場時間に関係ないものから、ということでホテルでもらった地図を頼りに駅から左へ歩いて
Porte de Mars(マルスの門) へ。ローマ帝国で最大と言われる凱旋門です。
駅からの路は大きな公園沿いでマロニエの花盛り、とても綺麗なのですが休日なので恐ろしいような無人。公園の中の遊園地まで休み、休日に乗らずにいつ乗るのでしょう? 門の周りは車の往来は激しいけれど人影はまばら、5月1日はメーデーであると同時にスズランの花をプレゼントする日なので、見える人影はスズラン売りだけです。自分で摘んできたのでしょう、家族連れや子供の姿が目に付きます。結構しつこい。 ゴーストタウンを町の中心へ向かいます。まずは市庁舎、建物の上部にあるルイ13世の像は大革命で破壊されたものを19世紀になって再設置したそうです。ここでは大勢のデモ隊に遭遇しました。フランスは今失業率の高いのが悩みなのですね。色々なグループがデモ行進をしていましたが、フランスらしいな、と思ったのは、子供の他に犬までがスローガンを書いたTシャツを着ているところでした。 |
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しばらく歩くと、「洗礼者ヨハネの生家」という立派な建物が現れました。洗礼者ヨハネとはキリストに洗礼を施した人、つまり中東に2000年前に生きた人でですから、そんな人の生家がこんな所に、しかも近代的な建物で、おかしいな、と思いました。詳しいことは分かりませんが、この人は17世紀の人で、キリスト教の一つの派を創立した後世の人のようで、町の中あちこちに彼に因んだ場所がありました。
やっとランスのノートルダム大聖堂とのご対面が叶いました。
12世紀から700年に亘って、フランスの歴代王はランスで戴冠式を行わないと正当な王と認められなかったということで、有名なのは百年戦争の折り、数多いる王の候補者を出し抜いて、ジャンヌダルクに伴われたシャルル7世が戴冠したということでしょう。何だか旗取り競争みたいですが、大聖堂の正面にはジャンヌダルクの像もありました。ジャンヌダルクはフランスの北部で活躍した人で、トロワの大聖堂にも、立ち寄ったというプレートと像がありました。
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ローマ軍を打ち破ったフランク王クローヴィスが戴冠した
498年の 1500年後を記念して、1998年ローマ法王がランスで記念のミサを行って、政教分離の見地から物議をかもしたりもしましたが、25人もの王が戴冠した大聖堂はフランスの象徴とも見なされ、第二次大戦中はドイツ軍の集中攻撃を受け、壊滅的は被害を受けたそうです。ドイツに近いということもあるでしょう。
その瓦礫の中からクローヴィス王の洗礼堂が発見されたとのこと、この教会も古い建物の上に建てられているのですね。修理中の他、発掘中の場所が沢山見られました。
内部は静かなもので、有名なシャガール作のステンドグラスもゆっくり鑑賞できました。シャガールはロシアに生まれユダヤ人社会で育ったとのこと、独特の美しい色ガラスは13世紀の手法で作られているそうです。赤・青・緑の美しさ、感動的でした。
大聖堂の正面には最近ヨーロッパの何処の観光地でも見られるミニトレインがいました。所要時間がたった30分とのことで、市内全部を廻れるのかしらと疑いながら乗ったら、やはり大聖堂の周りだけ、というインチキでした。
この車で廻ったところには3世紀のクリプト(地下礼拝堂)がありましたが、これは夏のみ公開で残念、県庁広場にはルイ15世の像がありました。
休日なので諦めていたのですがランスの観光局は11時に開きました。本物なのか否か、建物は石造りの遺跡の体、やはりおのぼりさんが多く、中は瞬く間に満員になりました。
シャンパン工場を見学する人が多く、それは休日でも開いているようでした。マルスの門や水道橋などの古代の建物、道路や住居を造るためには町の地下から切り出した石灰岩が使われ、その切り出し跡を利用して地下に造られた何kmにもわたるシャンパンの貯蔵庫を見学、試飲も楽しめるとのことでしたが、アルコールに弱い私はパス、試飲と買い物だけならば大聖堂の前にもシャンパン屋がありました。
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ランスにある4つの世界遺産の内、休日も入れるのは大聖堂とサンレミ教会だけなので、午後はサンレミ教会に行ってみました。
サンレミという人はこの地方の大司教でしたが、戴冠に先立つ496年、異教から改宗するクローヴィスに(天使から授かった聖油を使って!)洗礼を施した人で、国王に従ってフランス自体がそれ以後キリスト教国になったという、フランスの歴史にとっての重要人物です。 またこの教会は、日本の有名な画家・藤田嗣治画伯がカトリック教徒に改宗するきっかけとなった教会でもあります。 教会は町の中央からは大分離れた場所にあり、最初歩いていった私は、途中、休日のゴーストタウンで人気は少ないし、居るのは曰く(いわく)ありげな人ばかりに見えて、ちょっと恐ろしい思いをしました。 こんな町の真中にもシャンパン工場があり、何とマキシムの看板が出ていました。休日でしたが、韓国人らしいグループが入っていました。 サンレミ教会は、バジリカと呼ばれるローマ時代の古い建築様式で建てられた教会で、明かり窓が少なく、藤田画伯が霊感を受けたと言われるのも頷ける、暗い感じの教会です。内部の中央には彫刻で飾られたサンレミの棺がありました。紀元500年頃の遺体が入っているのですね。ローマ法王がクローヴィスの洗礼1500年を祝ってミサを行い、藤田画伯がカトリックの洗礼を受けた場所でもあります。 |
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ランスの町には「市内回り」のようなバスが走っており、教会脇のバス停からは左右どちらの方向行きに乗っても、駅に着くようです。
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再び大聖堂まで戻り、近くにあって気になったお菓子屋さんを覗いてみました。
ランス名物として紹介されていたのはサクサクしたピンクのお菓子。とても綺麗でおいしかったので沢山買いましたが、紙の箱しか無く、粉が出て、持ち帰るのが大変でした。このお菓子を作るには、小麦粉ではなくピンクの粉を使うのだそうですが、ピンクの色は何処から来るのか、訊いてみましたが確たる返事はありませんでした。 ランスはまたシャンパンの中心地ですから、シャンパンに因んだお菓子も沢山有り、右の写真のものは、シャンパンの栓の形に作られたチョコが、ビンの形をした容器に納められているものです。 |
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歩きつかれて駅まで戻ってくると、まだ鈴蘭を売っています。可愛い女の子に声を掛けられ、ついに一つ買いましたら、ホテルでも女性客にだけ、鈴蘭をくれました。鈴蘭だけでは寂しいと思ったのでしょうか、この日売っていた花束は大体バラと一緒になっていました。
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5月2日
一日たった二本しか無いアミアン行きの遅い方に乗ることにしたので、夕方までランス観光です。休日で見られなかった場所が多く、ランスの町は案外広いので、忙しそうです。
市内だけで4つも世界遺産のあるランスの町では、パリに於けるカルトミュゼ(共通券)のように主要な6つの博物館の入場券を一枚にして売っています。通用は一ヵ月、美術館、終戦調印記念館、プラネタリウムなども含んで全部で3ユーロですから安いものです。
ただし、この地域の観光シーズンは5月かららしく、それ以前は開いていないところが多いので注意が必要です。
まずは大聖堂隣のトー宮殿へ。ここは共通券不参加。昔は司教館だったここも世界遺産の一つで、戴冠の儀式に関わる遺物や、古い彫刻などが納められています。入場者は少なく、所々で所員らしい人がおしゃべりしているのが目立つぐらいでした。出口の近くには売店がありますが、ここは充実、というか、私のように歴史や建築に興味のある人にはありがたい、この地方とフランス一般的の関係書物、中世に関するものなどが沢山ありました。
続いてサンレミの博物館へ。ここは開場が午後二時で、早く着いたので再度教会に入ろうとしたら、こちらも二時までは昼休み、お天気が良いので教会広場でノンビリ昼食にしました。
二時前になると沢山の車が門内へ入って行くのですが、それが館員でした。ここも入場者は少なく、二時前からダラダラと入場を許していました。内部にはサンレミの業績を示す沢山のフランドル製のタペストリーが飾られ、ここランスも随分昔からフランドルとローマの通行路だったことが知られます。目玉のクローヴィスの洗礼を描いたタペストリーは少々色落ちが激しいけれど、古さを考えれば仕方ないでしょう。
考古学的な展示物も有り、皆静かに見ていましたが、突然社会見学らしい小学生が現れ、どこでも同じですね、先生の注意する声と生徒の喧騒で騒々しくなりましたので、入れ違いに外に出ました。
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一度駅前のホテルに戻り、駅で列車の時間を再確認し、念のために切符も買ってしまい、今度は藤田画伯の礼拝堂へ向かいました。フジタ礼拝堂の名前はバス停もあり知られていますが、ホテルのお姉さんに聞いても距離はイマイチはっきりしません。昨日最初に行った
Porte de Mars の先らしい、と歩いていると、右側にシャンパン工場の一つマム社が見えてきました。
藤田画伯は、ここの社長の厚遇を受け、敷地内のマリアさまに捧げる小さなロマネスクの教会に、壁画とステンドフラスを制作したとのことです。教会のたたずまい、前庭にある可愛らしい像、何とも心温まる雰囲気でした。 |
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日傘が欲しいような上天気でしたが、この頃から急に空が曇り始め、ポツポツと雨も落ちてきました。ランスはヨーロッパでの第二次大戦に終止符を打つ、ドイツ降伏条約が調印された場所で、駅の裏手には調印式が行われた建物があるのですが、遠景のみでパス、駅へ戻りました。 ランスの駅前には私がこの旅で一度だけ見た「万能」自動販売機があります。普通の自動販売機で売られている飲み物、スナックの他にトイレットペーパーからテレホンカードなどまでが一台の機械で売られていました。そして面白かったのは電子レンジ機能も備えていて、商品によっては暖めて出てくるようになっていたことでした。あまり利用している人は見ませんでした。 私が海外の自動販売機でで一番不便だと思うことは、冷たい清涼飲料だけで、日本のように暖かいお茶やコーヒーが無いことです。冷たい缶のコーヒーなども見かけないので、私のようにジュースを余り飲まないけれど味の無い水も苦手、という人には困ります。コーヒーや紅茶は入れてすぐに飲むものだというわけでしょうが、味の濃いコーヒーしか見つからないときなど、滅多に利用しない日本の自動販売機が恋しくなります。 |
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ホテルへ戻って、預けてあった荷物をピックアップ。駅に行くと列車は始発で30分以上前に来ていました。
何と私に途中駅を確認するフランス人がいたのですね。駅の名前は
Laon といって発音が非常に難しく、「Laon へ行きますか?」という早口のフランス語が聞き取れない私は何度も訊きなおし、相手も懲りずに何度も訊くので、堪り兼ねて側の人が答えてくれました。
列車の発車直前、先ほどから怪しかった空から突然の大雨。周りが真っ暗になるようなもの凄い雨で、最後に乗った人たちはずぶ濡れでした。
ランスからアミアンへの途中、Laon は大きな町でした。操車場も兼ねているのか、線路が一杯でTGVも来るようでした。さっきの人は私にウィンクをして降りていきました。
他の大半の駅は過疎を絵にかいたような小さな集落で、踏み切り小屋以外には何も見えず、こんな所に停まる必要があるのかしらと思う所もありました。ロマネスクの教会や切り出した材木の他は一面の青麦畑と菜の花、所々には牛、馬、羊の牧場も見えます。小麦の積み出しの頃には少しは賑やかになるのでしょうか、多くの駅の、沢山の引込み線の先には巨大な製粉工場がありましたが、どれも錆付いて、使われていないように見えました。ドイツに近いこともあるのでしょう、教会の形も様々です。先日バスクで見たのとは違う種類ですが、植林はここでも盛んです。
線路の周りに、綺麗な川や池のようなものがたくさん見えてきて、アミアン着です。
アミアンでは駅前のホテルが満員だったため、街中のメルキュールになりました。町の中心部は駅からかなり距離があるので、それは良かったのですが、前もってもらった地図では距離感が全く掴めず、駅からどう行けば良いのか分からなかったので、ホテルまではタクシーを利用しました。
5月3日 アミアン
私の泊まった Mercure にはドライバー用の地図しか無かったのですが、ホテルの前は車が停まれないほどの小さな路、朝起きてみたら周り中がパトカーなのでビックリしましたが、警察署の真ん前なのですね。ここではパトカーも路上駐車でした。
まずはフランスで一番大きいという大聖堂を目指して出発です。ホテルのある場所から見ると、大聖堂は丘の上に当るらしく、方向は簡単に分かりました。
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この町についてもガイドブックは簡単なものしかありませんでしたので、まずは観光局へ。
この町はフランスの有名な作家ジュール・ベルヌが活躍したことで知られており、彼の空想科学小説に因んで、観光局の前には潜水艦、上空にはUFOらしきものが浮かんでいました。また、町自体がドイツ軍との激戦の舞台となったこともあり、戦跡観光ツアーのようなものが沢山出ていました。第二次大戦だけではなく、第一次大戦でも猛攻撃を受けているのです。観光シーズンにはいつも催行されているようですが、5月7日のドイツ軍降伏の日が近いこともあって、観光客が沢山いました。フランスに取っては開放された嬉しい記念日ですから、お客が集まるのも当然かと思いつつ、この日をドイツはどう迎えるのだろう、日本には戦跡ツアーなんて無いなぁ、負けたからかしら、なんて色々なことを考えました。 フランス語だけでは各国から来る観光客に対応できないということでしょうか、珍しく「イギリスの歴史学者と行く、戦場ツアー」というビラもありました。 |
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アミアンの町の観光は、フランスで一番大きいゴシックの大聖堂、美しい湿地帯、川べりにレストランが立ち並ぶサン・ルー地区、そしてジュールベルヌ関係という四つになります。
まずは観光局からすぐのノートルダム大聖堂へ。
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ヨーロッパの教会といえば、石造りのためもあり、完成まで何百年もかかることが珍しくありませんが、ここはフランス最大でありながら、13世紀にわずか68年間で完成したのだそうです。最初から最大のものを造ることを目指したために、敷地を確保するために様々な建物をどかせたと書いてありました。パリのノートルダム寺院の2倍の大きさとのこと、なるほど大変大きいのですが、シャロン、ランスなどで大きいのを見慣れて?しまったせいか、そんなに感激はありませんでした。
先にも出たようにアミアンは戦災が酷かったのですが、爆撃に備えて教会の内部を砂袋で埋め尽くした写真が、今でも町で売られています。
この教会内部で一番印象的なのは、樫の木に様々な彫刻が施された内陣席です。16世紀に彫られたと言う聖書の場面が、手すりや椅子の下にまでギッシリで、中にはノアの箱舟のように、聖書に無関心な人でも知っている場面もありました。ここは午前中は閉まっていますが、午後二時からは無料で入場できます。
内陣席の外側にも彫刻が一杯施されています。普通はキリストの生涯を描いたものが多いのですが、ここでは洗礼者ヨハネの生涯が描かれています。その理由は、この教会の中にヨハネの頭蓋骨が保存されているからなのです!! ほ〜んとなんでしょうかね。ガイドブックには、第四回の十字軍の際、修道僧がコンスタンチノーブルから持ち帰ったもので、歴史学者、科学者からも認定されているとのことですが、ヨハネといえばサロメの願いによって生きたまま首を切られたことで有名な人、その首はその後何処に保存されていたのでしょうね。
建てられてから時間が経っている教会なので、現在は、一部づつ立ち入り禁止にして修復工事をしているとのことで、ちょうど今、ヨハネの頭蓋骨が保存されている部分が修理中とかで本物は見られませんでした。毎年6月24日にはそれを捧げて行列が行われるそうです。
教会中央の床には白と黒の大理石で造られた平面迷路が埋め込まれています。信仰への道のりとかいう説明でよく意味が分からなかったのですが、延ばすと全長234mあるこれを辿ることによって、信仰が成就する?、早い話がその迷路を辿れば巡礼路を通ったと同じご利益があるようでした。日本のどこかのお寺にもありましたね。
現在のゴシック建築物の外観は石がそのまま剥き出しになっていますが、中世の頃の教会は石の上に塗装がしてあったらしく、古い教会の内部に一部彩色の跡が残っているものもありますが、華やかなものだったようです。アミアンでは教会の西側外壁を昔のような鮮やかな極彩色に復元しようと言う試みがされており、6月15日から9月30日と、12月15日から1月6日までの夜間、プロジェクターで光を当てています。最新技術で、彫刻のそれぞれの部分に異なった色の光が当てられ、石に直接塗ったように見えるようです。
昔ロワール河の古城巡りをした時、日光東照宮を思い起こさせる絢爛たる装飾が施された古城が沢山あって、人間の心理はどこも同じと驚いたものですが、アミアンでのライトアップの写真を見ると、けばけばしく塗られたインド・ヒンズー寺院を思わせるものがあり、ここでも、人間の心の行きつく所は同じと感じ入りました。
物見高い私にはピッタリのイベントかもしれませんが、寺院の荘厳な雰囲気も好きなので、私にはちょっと馴染めないでしょう。でも、準備をしている所を是非見たいものです。
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この地もまたサンチャゴ・デ・コンポステラ巡礼路にあたるとのことで、外に巡礼宿がありました。 |
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アミアンを基点に300ヘクタールという広い地域にまたがって運河で囲まれた農地が広がります。湿地帯と言っても
Hortillonnages(オルティヨナージュ)という呼び名は「野菜栽培用に開拓された沼沢地」を表し、運河の水位の調整にはドック(水門)が設けられていたり、定期的に土手の修理が行われたり、自然環境を守るための人手がかなり加えられています。
午後二時からは底の浅いボートでの地域内遊覧クルーズが催されており、私も参加してみました。 環境保護団体が運営するボートは蓄電池式。定員12人づつを乗せて静かに進み始めます。周りは花盛り、静かな水面には雛を連れた水鳥が沢山、何も知らない雛たちがボートに寄って来ます。卵を温めている姿もありました。
ここに菜園を持つ人たちは勿論ここの趣旨を充分に理解している人達なのでしょうが、移動手段はボートだけ、使用する肥料に制限がある、土手のメンテナンスが大変、畑も放っておいてはいけないなど責任ある使用が義務付けられているために、負担になって手放す人もあるらしく、切符売り場には「売り不動産」の広告もありました。 |
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Hortillonnages とサンルー地区は運河で繋がっています。緩やかな流れの上を学生が漕ぐカヌーが滑っていきます。岸辺には「青少年ボートスクール」という建物もあり、流れの緩やかな、底の浅いこの運河で、思う存分練習できる環境を羨ましく思いました。
サンルー地区とはサン・ルーという教会を中心として中世には織物業の中心地として栄えた地区だそうですが、現在では運河に沿って小さな家が立ち並び、カフェやレストランの沢山ある賑やかな地域です。
レストラン街の手前まで来ると何やら大騒ぎの声が聞こえます。進んでいくと、運河にに張った細いロープに沿って二隻のボートが両岸から進み、すれ違いざま相手の大将を棒で突き落とす、騎馬戦のボート版をしていました。
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運河を挟んでレストランと対岸の一帯はアミアンの大学町で、校舎の他に学食や寮の建物が続いていました。そこの学生たちのお祭りなのでしょう。陸上でも他の学生たちが橋の欄干上を歩いたり、ぶら下がり競争をしたり、まさに若さを発散していました。カフェやレストランのお客も大声援でした。
ここのレストランのいくつかは、先ほどのHortillonnagesで作られた野菜を使っていることを、店頭に表示していました。 |
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5月4日
アミアンからパリへの列車は、今までの路線とは比べものにならないくらい沢山出ています。と言っても今日は日曜日ですので要注意。午前中は9:13発一本だけ!です。午後は10本ありました。
昨日は大聖堂近くの旧市街ばかり観光しましたので、今日は町の中央部を通って、ゆっくり駅へ向かうことにしました。
町の中央部は広い範囲が歩行者天国になっているため、足の弱い人に配慮してか、小さな電気自動車がいくつも走っていました。走る距離も短いのでしょうが、値段がたった0.5ユーロでした。日曜日は、これも台数が激減します。
アミアンも今まで立ち寄った町と同じように、古くから栄えた町でした。ドイツやベルギーに近いこの付近は、ローマ時代には交通の要衝でしたし、その後のフランク王国では中心地に近いのです。
ローマ時代に町の中心地だったところ(フォーラム)が現在もアミアン一番の繁華街になっており、レストランや商店が密集しています。日曜日には大勢の人が散策しており、古代ローマの賑わいもかくや、というところです。現在の地図に被せるように、古代の町の地図を描いたプレートが立っており、それには円形競技場なども描かれていました。何箇所かでは地中に今も残る古代の石積みが見られるように、ガラスで被ってありました。
そこまで古くなくても、充分オバケが出そうな苔むした教会なども、町の真中にありました。
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昨日の観光局の近くには、立派な大時計がありますが、これは新しく、市長さんだった人が2000年に、引退記念に自分の本業である時計を寄付したものだそうです。
長らく栄えた町を証明するように、建物はどれも立派で、昔は金持ちの個人住宅だったけれど今は通商産業省のオフィスになっている!、という建物は、玄関に素晴らしいステンドグラスが貼られ、庭も夢のような美しさでした。
今までの町と一番違うのは、日曜日の人出の多いことです。他の町はゴーストタウンでしたもの。
駅に向かう歩行者天国には屋外ギャラリーが並び、テントの中にはいろいろな画風の絵が沢山展示してあり、皆が様々に品定めしていました。
日曜なので閉まっているようでしたが、最後にジュールベルヌ関係の場所にも行ってみることにしました。
彼は私が去年行ったフランス西部の町ナントの出身ですが、奥さんの故郷であるアミアンで活動期の大半を過ごし、彼の有名な作品「80日間世界一周」「海底探検記」などは皆ここで書かれたようです。
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アミアンも他のヨーロッパの古い町の例に違わず、昔は城壁に囲まれていましたが、1850年代にパリへ通じる市の門(パリ門)を廃してその外側(西側)に新市街として高級住宅街が出来、そこはフランス王アンリWに因んでアンリビルと名付けられました。既に名士で市会議員も努めていたジュールベルヌはここに住んだことで、この地区の発展に大いに寄与したそうです。彼の家は博物館になっており、その前に住んでいた別の家にもプレートが貼ってありました。
駅の前には背の高い細長いビルが建っていまう。最初に見たときには何処かの教会の塔かと思いましたが、近寄ってみると、新しいもので何と中華料理店だったようですが、今は潰れたのか、閉店中でした。駅の良い目印ではあります。 |
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アミアンで名物のお菓子は何でしょう、と観光局のお姉さんに聞いたら、チュイルとマカロン、と教えながら舌なめずりをしていました。
なるほど、とてもおいしいものでした。 日本で読んだアミアンのガイドブックには「アミアンは決して綺麗な町とは言えない」というくだりがあり、私は余程汚いのだろうと恐れていました。ガイドブックにそんなことを書くものではありませんね。 美しい湿地帯、サンルー地区の水辺、今回の旅でアミアンは一番美しい場所でした。 ただ、今回の地方だけでなくフランス全土に言えることですが、犬の糞だけは、もう少し何とかして欲しいですね。 こちらの犬は躾が良いので、綱を付けずに散歩している人をよく見かけます。私にはそれは、糞をしている所を自分が見ないで済むための工夫のように見受けられます。アミアンの歩行者天国でも、可愛いスコッチテリアが道の真中で用足し、飼い主は、と見るとちょっと先を振り向きもしないで歩いているのですね。 最近は飼い主の責任も問われるようになり、道には処理用のビニール袋が置いてありますが、一朝一夕には直らないでしょうね。相変わらず、水で流すための大きな下水穴が目に付きます。こんな不潔が伝染病の原因なのよ、と言ってあげたい気分です。 |
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午前中は一本しか列車が無かったのに昼は12:13に急行,12:18に鈍行と二本続けて出ます。その後は15:08。急ぐ旅でもなし、沿線に興味があったので12:18の鈍行にしました。約2時間の行程です。
駅を出るとすぐ湿地帯に入りました。昨日のHortillonnagesは広さ300ヘクタールで、近隣のいくつかの村に跨っているとのことですから、しばらくは水の美しい地域を通過しました。続いて菜の花畑。沿線の殆どが菜の花とエニシダで真っ黄色でした。
パリへ向かって行くのですから、大きな駅も乗降客もだんだん増えてきましたが、大部分は一掴みほどの家が集まる村落の連続でした。
パリへ近付くと、再び森が増えてきます。それを通り抜けると突然密集した人家の中にひときわ高くサクレクール寺院が見えて、北駅着です。
私は今まで治安上の観点から、パリの北部にはあまり行かないようにしていました。今回、北駅は空港からのアクセスの点ではパリの中で一番便利であると再確認しましたが、安全面ではやはりちょっと問題があるように感じました。
今回パリでは何の予定も無かったので、まず北駅近辺の宿について調べてみました。
北駅は東京の上野駅のような場所ですから、駅前には宿が沢山あります。私が泊まったのは、友達が利用していて便利、という宿で、なるほど駅の真ん前で安かったのですが、仕事としてお客さんを連れてくるにはちょっと問題あり、という感じでした。
外出して夕方戻ってみると、旧共産圏からの観光バスが到着して大騒ぎしていました。土産が多いこと、騒がしいことなど私たちとちっとも変わらないのですが、多分あの人たちとの同宿は問題があるでしょう。
ただし宿泊代金は、この交通の便を考えると破格の安さです。
沢山並んでいる他の宿はいくらくらいなのか、目に付く何軒かに入ってみました。
A.日本人の客がすごく多い、と自慢げなフロントのオジサンは、会話は勿論、ひらがなまで書けました。良さそう。
B.今回泊まった宿と同じ程度で、近くにカフェが沢山あるので、朝食は出さないと聞きビックリ。割り切り方が凄いですね。パンフレット無し。
C.1850年建造の歴史的ビルの中にあるとのことですが、安い宿の場合は時に古さ=汚さの時もあるので要注意。
D.ひとつだけ高級そうなホテルに行ってみました。安心、という感じですが、値段は他のホテルの2〜3倍でした。でも長期滞在の場合は、気分的にゆったり出来て、ここが良いかもしれません。
日本人の場合は荷物が大きいのが問題です。見学した安いホテルの中には、トランクが入らないかもしれない小さなエレベーターのところもありました。ドアの殆どは手動です。田舎の安い宿ではエレベーターの無いところもあるのです。
朝食は大抵別料金ですが、規模の小さな宿では、出るのはせいぜいパンと飲み物程度です。
北駅付近の宿のことは一応分かったので、街中へ行ってみることにしました。
地下鉄の入り口へ行ってみると、メトロの切符の色が変わっていました。古いのも使えるという事ですが、それでなくてもメトロの切符を使った(使用済みの切符を渡して、出口でつかえたところを狙う)盗難が多いのに、危ないことです。
パリの街はいつものことながら混んでいますね。でも、ノートルダム前広場の「芋の子を洗う」ような混雑の中、今回はさすがに日本人が少なくて驚きました。
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ふと思いついて教会の左手を見ると、塔に登る順番待ちの列が今日はいつもより短いみたいなので、並んでみることにしました。もう何度パリに来たか分かりませんが、ノートルダムの塔はいつも長い行列で、パスしていましたから。今日の列が短いのは日本人が少ないから?
暑い中、並んでいると突然大勢の警官と何台もの黒塗りの車が来て、気が付くとノートルダムの正面の大扉が開いています。どこかの国のVIPのご来訪のようですが、広場の群集からは特別待遇に一斉にブーイング。 VIPは大勢の護衛に囲まれて中へ入っていきましたが、中は普段と随分違う雰囲気でしたから、面食らったでしょうね。 VIPは中々出てこず、人で一杯の広場、唯でさえ狭い周りの路は、警備車の他に大型バスやタクシー、マイカー、歩行者にゴミの収集車まで来て大騒ぎ、でもそんな中でパトカーに乗った警官同士で抱き合って挨拶したり、私服らしい人と握手したり、和やかなものです。でもVIPが誰なのかは、教えてくれませんでした。 VIPは裏口からでも出たのでしょう、しばらくすると黒塗りの車は空のまま、警備車を従えて去って行きました。 |
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さて、塔の列は少しずつしか進みません。石造りの塔なのに、それとも石造りだから?、入場者の重量制限があるとかで、人数を区切って入れます。その入り口にいるオジサン、中から合図があると人数を数えて入れるだけが仕事ですから、側に彼女を座らせて、ずっとおしゃべり。暇つぶし用の分厚い本も置いてありました。以前はすぐ近くのサンシャペルの入り口で働いていたとかで、「お待ちください」とか簡単な日本語を話せると自慢していました。
待っている列には別の係員がパンフレットを配りに来ます。ちゃんと日本語のもあります。
やっと順番が来て中に入ると、狭い階段ばかりです。
最初のフロアは売店。ここで、前のグループとの時間調整をします。前が混んでいる時はここで待たされます。
後はまた狭い階段ばかり。途中で息が切れても、下から元気な子供たちが来るので止まることも出来ません。私の前の男性はスペイン語で一段、二段、と数えていましたが、だんだん声が小さくなって、最後は息も絶え絶えでした。
展望台に出ると、写真でよく見る怪獣の像が目の前に、その先にはパリのパノラマが広がります。ノートルダム寺院が出来る前、ここには別の教会があったそうで、広場に残るその礎石跡は塔に昇るとよく見えるのですが、本日は広場が満員で無理でした。大きな鐘を見た後、更に塔の屋上へ行くのですが、ここも人数制限(19人)をしているので、合図があるまで昇れません。
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屋上にはさすがに危険防止の金網が張ってありますが、更に見張りの青年がいます。途中の係員も若い人が多かったのですが、ここで何時間いるのでしょう、ご苦労なことです。
待っている人がいるので、屋上での滞在時間は5分と言われました。一周には充分な時間です。景色も途中の展望台で充分かなと、私は思いましたが、違うのは展望台は前面だけ、ここは360度ということでしょう。
混んでいるのに人数制限となると、入れる人が限られてしまうのではと思いますが、お陰で中はガラガラ、ゆっくり見られます。時間に余裕の無い人は来なくて良いということなのでしょう。
帰りは心臓にも余裕があったので数えてみましたら、約300段ありました。
下に下りてまずアイス。広場では様々な人が様々な催しを楽しんでいましたが、私はその中の人形劇が気に入りました。キリストの誕生やマリア様の昇天など聖書にまつわる話を可愛いお人形で表現するのですが、観客のほとんどが大人でも皆一生懸命見ていました。
全部コンピューター制御というのですが、操り人形の動きは一見非常に原始的で、最初は手動かと思いました。
ノートルダムの前の広場には、古代の教会跡が見られる地下遺跡や、フランス中の距離の基準となる「ゼロ地点」、日本橋のような標識もあるのですが、大混雑の本日はパス。
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| ホテルへ帰ろうとセーヌ河畔を歩いていると、なにやら人だかりがしています。ここは、シェークスピアカンパニーという古本屋なのですが、オーナーが有名な人なのですね。でもまだ生きているのかしら。
ホテルへ戻って窓から外を見ると、正面はフランス国鉄の建物ですが、カーテンはズタズタ、窓もガラスが汚れていて、ちょっと呆れました。窓が開いているのですから誰かいるのでしょうが、人気が感じられません。 北駅はガラス張りの新しい駅舎も出来ましたが、中央にある大時計は何と1時間も進んだまま、私が着いた日からそうでした。 |
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5月5日
空港へは、来た時と全く反対に戻りました。
空港ではSARSが危険だなぁ、なんて考えながらロビーを歩いていたら、向こうから厳重なマスクをした中国人らしい家族連れ、びっくりしてこちらが逃げ出しました。
旅行中、アジア系の顔は疑われているかも、と感じることが何度かありましたが、まさか「私は日本人です、日本と中国は違う国です」なんて看板を下げて歩くわけにもいきません。
マスクをしたあの中国人家族のヨーロッパ滞在は、さぞ不快だろうと同情してしまいました。フランス語ではSRASと言うのですね。
出発が大分遅れたため、ロビーには人が一杯になりました。到着便が遅れたのが原因ですが、放送がフランス語でしかなかったため、日本人だけでなく大勢の人がカウンターに詰め寄っていました。私の隣に座って待っていたインドの青年もフランス語がダメで話し掛けてきたのですが、アメリカに留学していたとか、珍しく癖の無い美しい英語を話していました。
ここでのチェックインは厳重で、大きなベルトははずして別に検査、ブーツは全員脱がされていました。
待ち時間が長くなると、一箇所に集まってタバコを吸う人が出てきました。集まっている場所が「禁煙」のシールが貼ってある真下だったのも驚きでしたが、吸っている人が全部日本の若者だったのに絶望しました。
アムスの空港では、往路別れた二人が元気に待っていました。イタリア・クレモナでは展示してあったバイオリンの名器ストラデバリウスでの即興の演奏会に遭遇したそうな、私へのお土産はバイオリン模様の「ポストイット」でした。
アムステルダムの空港は考えてみると随分昔からあるように思えますが、古さを感じさせない、近代的で清潔な空港です。お店もブランド品の他、チューリップなど球根を売る店、「うさこちゃん」でおなじみのミッフィーちゃんグッズ、ダイヤモンドも売っています。
そしてこのたび知人から教えてもらったのですが、空港内には美術館もあるようです。時間つぶしにはもってこいですが、私が今持っている空港ガイドには載っていません。次に行く機会があったら探してみますが、機会のある方からの情報も、お待ちしています。
乗り継ぎまで随分長時間待つこともあるのですが、4人以上ならば簡単な市内ガイドツアーもあります。空港近くにも見所は沢山ありますから、ご利用されてはいかがでしょう。
再び満員の飛行機に乗り帰路につきました。
5月6日
成田へは定刻着。飛行機から降りる前に大勢の人がマスクを着けましたので、私も。考えてみれば、どこから帰ってきたか分からない人が大勢すれ違うここが一番危険かもしれません。
入国審査官は、そう考えると気の毒ですね。カラス天狗のような厳重なマスクをしていましたが、入国者はマスクを取って見せるのですから、必ず息がかかるのです。
出てきた到着ロビーも、ゴールデンウィークの翌日にしては閑散としたものです。自宅へ向かうバス、時には満員のこともあるのですが、今回はたった2人でした。マスクを取って乗ってしまいましたが、あの人、どこから帰国したんでしょうね。
帰国後しばらくは心配していましたが、SARSの潜伏期間は通り過ぎたようです。