早春フランス・バスクへの旅 2003.2.20〜26
「短い旅は旅じゃない」主義の私、今までの旅はグアム、サイパンや一部のアジア都市を除いて、10日間でも短いほう、条件が許せば二週間、三週間以上というゆっくり旅行でした。
でも儲からない旅行会社を自営していて、おまけに大きくなったとはいえ子持ち、の主婦の私には、「仕事」という大義名分が無ければ、長い旅にそうそう出られるものではありません。
私の周りの元気なオバサン達・・・料金の安い冬に何度もフランスへ行っている人、短期間のパリ滞在を目いっぱい楽しんで来た人・・・ご家族はどうしているの?と訊かれそうですが、彼女たちに刺激されて、2003年冬、重い腰を上げて私も遂に、今まで避けてきた「冬の短期間旅行」を決行しました。
結果は・・・、フランスでも南の方へ行ったので、案じていた日の短さは気にならないほどに回復しており、気候も日本より暖かく、観光地はすいていて、とても楽しく充実した旅になりました。
皆さんも是非お出かけなさいよ。お奨めもかねて、今回の旅行記をここに記すものです。
===今回私が行く先として選んだのは「フレンチ・バスク」と呼ばれる、行政上は「アキテーヌ」というフランス南西端の地域です。===
訪問地は
2月20日(木)
私が急にバスク旅行を思い立ったのは、2月9日にバスクの人の話を聞いたからでした。冬の間にフランスへ行きたいとは思っていましたが、ポピュラーなところは大抵行ってしまったし、暖かくて、地中海沿岸以外のところで良いところは無いかしらと探していた時の事でした。
フランスとスペイン国境に跨るバスク地方、スペイン側は独立志向が強く、激しいデモや爆弾事件で時々報道されますが、フランス側は治安が良いとのこと、それならば以前から興味を持っていたバスク地方と、アンリ4世、ルイ14世、サンチアゴ・デ・コンポステラ巡礼路、三銃士とダルタニアン、ガスコーニュ等、数々のキーワードの一部を見てくるのも良いかなと考えました。
飛行機の中で放映されたフランスのニュースを見ていたら、偶然バスクの海岸が出ました。イヤフォンを着けていなかったので場所の名は分かりませんが、バスクの海岸=ビスケー湾は、最近タンカーが座礁して重油が流出していると日本でも報道されました。その海岸を清掃している場面でしたが、インタビューに応えている男性の名前が、2月9日に会ったバスクの人と同じEtcheverry!。Etで始まる名前はバスク独特のものなのですね。
2月21日(金)
シャルル・ド・ゴール空港へ着いたのは朝の4時、日本では正午に当りますが、夜明けの遅いパリはまだ空が真っ暗。空港から出る乗り継ぎ便、電車、バス等の出発までには一時間以上あり、どこで時間を潰したらよいのか、便利な夜行便のこれが一番の欠点です。
今回乗り継ぎ便を利用する人たちは、成田で「コーヒー券」というのを貰っており、彼らのためにターミナルのカフェが開いていました。途中にあるセキュリティチェックは「コーヒー券」が必要で、乗り継ぎでない私は「券」が無いためにカフェに入ることも出来ないので、案内の人に交渉して「券」を貰いました。でもここで降りる人で預け荷物のある人たちは、のんびりお茶などしていたら、荷物が時間どおりに出てきて、持ち主が現れないと盗難の可能性もあるので、コーヒー券は諦めて出て行きました。私は機内持ち込みの小さなバッグだけでしたので、無料で朝食にありつけた訳です。今回の旅行ではこの後も荷物が小さいメリットをあちこちで感じました。
カフェでは「つくば」での学会に行って来たという若いフランス人女性数学者と同席になりました。コーヒーを飲みながらも数式が一杯の書類と格闘している彼女の、日本土産が可愛いキティちゃんだったのにはちょっと驚きました。周りは乗り継いで様々なところへ行く人たちで一杯、スペインだ、プロバンスだ、と行く先の話で盛り上がっていました。皆さんインターネットで入手した資料を持っていました。
カフェは6時までということで、私は入国手続きをして空港ロビーに出ました。入国のブースにはもう別の便で来た人たちが並んでいましたが、日本人と違って入国が大変な人もいるのですね、係員に質問されてなかなか動かない列が沢山。
飛行機は速いけれど、空港から町の中心まで、更にお金や時間がかかることがあるので、パリから目的地のアキテーヌ地方までは列車利用にしました。フランス・バカンスパス利用でドゴール空港から出るTGVを日本で予約してありました。
ボルドーまではお馴染みの駅名が並んでいますが、その先はDax,Hendayo,Irunと、あんまり聞いた事が無いですね。スペイン語と、仏西語どちらとも関係が無いというバスク語の影響でしょうか。詳しい地図が日本で手に入らなかったので、時刻表と首っ引きでも心配です。
私の今夜の宿は Pau(ポー) という所ですが、ガイドブックを参照してTGV を降りるのは Dax(ダックス) にしてありました。Dax とは今回バスクに行くに当って初めて目にする地名です。地図を見ると乗換駅には違いないけれど小さな字で書かれていて、その先 Pau まで行く列車があるのか心配になって来ました。現地に行ってますます驚くのですが、どこも列車の間隔は二時間くらいあるのです。もっと大きいバイヨンヌの駅の方が列車が多いのではないかと、ドゴール空港のTGV駅で取りあえず行く先をバイヨンヌに変更しました。
フランスの駅の様々な表示は「字が読めれば」簡単です。待合室の電光掲示板に乗車予定の列車についての詳細が出ますので、自分の予約券と照合します。
「VOIT」が車輌番号で、車輌番号によってプラットフォームに出る口が「北方向」「南方向」と別れます。
字が似ているけれど「VOIE」がプラットフォームの番号。〇〇番線という訳です。
発車時間が近くなると一応放送があります。それから指定されたホームに出るのですが、ホームは建物の「外」で、寒いこと。巨大なネットが掛けてありますが吹きさらしです。
ホームでは「REPERE」というのが乗車口の目印で、〇○輌目はREPEREの「B」という調子です。
ホームで待っていると、列車は5分くらい遅れるとのこと、そんなのは寒いホームに出る前に言ってよね。「遅れ」の表示はホームに行かないと無いのです。
「REPERE」の目印の前で忠実に待っていても、列車は日本のように目印の前にピタリと停まることはなく、何メートルもずれて停まります。でも全員が降りて、全員が乗り切るまでドアが閉まることは無いので、皆ノンビリしたものです。日本の駅と違ってホームが低いので、列車に乗るにはちょっとよじ登る感じになります。トランクなんか持っていると大変、大抵周りの人が助けてくれますが。
車内は、日本の新幹線に比べれば随分ショボイ感じです。椅子の間隔は狭いしリクライニングも出来ない、テーブルは大きすぎる、そして何より苦情が出そうなのは、椅子の向きが変ええられないことでしょう。車輌の真中に固定された大きなテーブルがあり、それに向かい合った椅子の後ろは全部同じ向き、つまり車輌の半分の席は常に進行方向を向き、もう半分は常に進行方向と反対、日本だと酔ってしまう人も出る配置のまま固定されているのです。私の隣はボルドーまで行くオバサン、隣の座席が埋まって迷惑そうでした。
ドゴール空港から南下する列車の最初の停車駅は「ユーロディズニー」前。もちろん駅名は別で Marne-la-Vallee-Chessy と言いますが、ミッキーのマークの付いた建物が沢山見えました。私は「四大ディズニーランド征服」とか言って以前ユーロディズニーに行きましたが、ここはやっぱりフランスで、他のディズニーランドとはちょっと色調が違う感じがしました。
一時間半程すると Futuroscope という名前の駅に着きます。これも初めて聞く名前の駅ですが、「未来」とか「スコープ」とか意味ありげで、駅の外を見ると超近代的なビルが建っています。未来科学都市といったところでしょうか。
そこから先 Poitiers(ポアチエ)近辺は、この沿線には珍しい岩や崖の地形です。美しい川に沿って断崖の上にも下にも家、家、家、削った岩の中に住んでいる人もあります。ポアチエの駅前も高い断崖の上に立派な建物が沢山。でも駅を過ぎると嘘のように平らになり、しばらくして少し残っていた岩も消えると、今度は一面のブドウ畑、ボルドーが近づいているのです。
ボルドーへは以前ルルドへ行った時に来ました。その頃には、排気ガスで真っ黒だったパリの街が既に随分きれいにお化粧直しされていたので、まだ真っ黒なままの印象のボルドーは、何か不気味な感じがしました。今回改めて見るボルドーの町は、相変わらず黒っぽい感じでしたね。ボルドーのことをバスクという人は無いようですが、ここから東へ行くと、三銃士で有名なダルタニヤンの故郷とされるアジャンという街があり、その辺りもバスクの気風を良く残しているといわれ、行って見たい場所ですが、そのようなことは出発直前に知ったので、今回は間に合わず、次回を期して通過。
ボルドーでは殆どの人が降りてしまい、新しく乗ってきた人ばかりでガラガラになると、途端に皆のお行儀も悪くなり、携帯電話がうるさいこと。車中で時刻表を確認するとバイヨンヌからポーへの連絡が信じられないほど悪いので、改めて検札に来た車掌さんに訊いてみました。やはりポー方面へは Dax で乗り換えるのが良いとのこと、でも待ち合わせは一時間以上あるというので、「それって連絡していないの?」と訊き返すと、「連絡って?」と怪訝な顔で聞きなおされてしまいました。みんな Dax で降りるのかしらん。
ボルドーを過ぎるとブドウ畑はすぐに消えてしまいました。代わって沿線は広大な松林になりましたが、よく見るとその殆どは整然と並んでいて、グループごとに背の高さが違う・・・、植林されているのですね。それはそれは広大な面積の植林で、それはこの後もバスク全域で見られました。
Dax へ13:15着。パリから5時間半、またまた沢山の人が降りました。ここはパリ発のサンチャゴ・デ・コンポステラ巡礼路の通過点の一つであると同時に、テルムと呼ばれる温泉町でもあるのです。ローマ時代から、温泉と泥浴が風呂好きのローマ人に愛されていたとのことです。駅の前にも大きな建物、ヘルスセンターか?。列車から降りた人は何処へ行ったやら、駅前は静かなものです。
私は次の列車の時間をチェック。14:31発、本当に一時間以上!そしてその次は16:07、注意しなければ。
サンチャゴ・デ・コンポステラの巡礼路上ならば町にも何かあるはず、英文のガイドにはこの地域の考古学の中心地とも書いてありましたから、駅で観光局の場所を聞いてみました。歩くと20分以上かかるとのことでしたが、駅前には見るものも無かったので歩き始めました。
駅を出て大通りにさしかかると、左Daxと書いてあります。おかしいな、右へ行くように言われたのに・・・、後で分かったのですが、Daxの町はDaxとSaint-Paul-Les-Dax(サンポールレダックス)の二つがあり、かなり大きく、駅で教えてくれた観光局はサンポールのものでした。何しろ一時間強しか無いので(さっきは一時間もと思ったのに)、急げ急げ!
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大通りには「温泉」と付記した、しょぼいホテルが何軒も。途中にはセブン・イレブンならぬ「8時・8時」という果物屋もありました。あまり活気のない、でも上品な町でした。マクドナルドの大看板にがっくりさせられながら観光局を尋ね当てると、何と12時〜14時まで休憩中。う〜っ、待っていて列車に間に合うかしら。
仕方なく、裏手の市庁舎へ。小さな町なのに、美しい公園に面して、歴史ありげな立派な建物が建っていました。後でガイドブックを見たら、昔の石造りの住居を利用したものとのことでした。
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| 来る途中に「11世紀の教会」という看板があったことを思いだし、暇つぶしに行ってみることにしました。公園の中に建つロマネスク様式の教会は外側の装飾が美しい。内部はガイド付きツアーありとのことですが、それは4月から10月の間だけで、今は閉まっていました。この教会は、何処を見ても「教会」と書いてあるだけで、名無しのゴンベー。サンチャゴ・デ・コンポステラ巡礼路上らしいロマネスク教会だけれど、Daxのガイドに書いてある4世紀のSainte-Marie-Cathedralとは違うものらしい。
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2時になったので観光局へ。フランスの面白いところは、こんな田舎の、滅多に人が来ないような観光局でも、キレイに髪をセットしたスーツ姿のオバサマが応対していること。この町のガイドブックを下さいと言ったら怪訝な顔をしていたけれど、サンチャゴ・デ・コンポステラ巡礼路上で、しかも列車の乗り換え地点にあるのならば、もう少し売り出せば良いのに。
教会のことをもう少し詳しく訊きたかったけれど、列車に乗り遅れると、今晩中に宿に着けないかも知れないので、パス。パンフレットをいくつか貰って駅へ向かいました。
サンチャゴ・デ・コンポステラの巡礼路を解説した書物のいくつかには、パリからの巡礼路がここDaxを通ると書いてあるのですが、町の中には結局それらしいものは何もありませんでしたねぇ。日本では参考になる資料は全く手に入らず、現地では時間が短く、貰ったパンフレットを見ても何が何だかよく分かりませんが、町は相当大きいようです。
駅から離れた所に湖があって、そのそばには立派なホテル、カジノもあるようで、町中には徒歩での散策コース、郊外にはサイクリングコースも整備されている様子。さっき列車から降りた沢山の人達はそちらに行ったのでしょう。
駅ではさっき応対してくれた係員が待ちかまえていて、私が手に持っているパンフレットを見てにっこり。
14:25ごろ、長い長いTGVが到着。前半分がパリ行き、後ろ半分が私の向かう方面Tarbe行き。パリから出てきた身としては、出発点と目的地がひとつの列車、という何とも奇妙な印象でした。
日本では在来線と新幹線の軌道幅が違うために、東海道・山陽新幹線などは在来線とは別の線路を走っていますが、全路線が広軌のフランスでは、TGVがかなり田舎でも走っていることを、今回田舎を旅行して知りました。
田舎ではTGVを除くと、もっと列車の間隔が開く、ということも。
列車は定刻14:31にDaxを出発。次の目的地はOrthez(オルテーズ)、フランス王アンリ4世の母親で、フランスの初期プロテスタント領主ジャンヌ・ダルブレが生まれた町です。
私が今回の目的地にバスクを選んだ理由の一つ、それはブルボン王朝の創始者アンリ4世が、Pauで生まれたと知ったことでした。
私はフランスの歴史の中でも、ロワール河近辺のお城が主な舞台になる、バロワ王朝と呼ばれる時代に一番興味があります。ルネッサンス時代から始まり、カトリーヌ・ド・メジチを中心とするイタリア色の濃い時代ですが、その王朝に次いで現れるブルボン王朝の最初の王アンリ4世が、フランスの西南端、時にはスペイン領にもなる地域の生まれと知って、何故?と思ったものでした。
フランスでは王様に何人の庶子がいようとも、カトリック教会で正式に結婚式を挙げた王妃との間に生まれた男子以外には王位継承権が無かったので、何度も家系が断絶するということが起きたのですね。本当に王妃の腹から生まれたことを確認するために、公開出産という非人道的なことも行われていました。
男系が絶える度に、家系を遡って継承者を探すことが行われ、アンリ4世は、バロワ王朝の王様が皆若くして亡くなったために王位が転がり込んできた訳ですが、フランス王になる前は「ナバル王」と呼ばれていました。そのナバルが、バクスの一部なのです。
アンリ4世は、プロテスタントの信仰を認める「ナントの勅令」を出したことで知られていますが、自身はカトリックとプロテスタント両派の間を終生揺れ動いた人です。彼の生まれた地域はフランスの中でも一番プロテスタント色が強く、それは彼の母親ジャンヌ・ダルブレの指導によるものでした。
Orthezには彼女の生家があり、そしてお馴染みサンチャゴ・デ・コンポステラ巡礼路のルピュイ、ヴェズレイの二つのルートが合流する地でもあるのです。
Orthez駅前は並木が美しい静かな場所ですが、町はかなり大きく、私は何度も道に迷いそうになりました。
ジャンヌ・ダルブレはアンリ4世の母であるよりはフランス・プロテスタント史上重要な人物で、その生家は、現在は一階が観光局、二、三階が「プロテスタント博物館」になっています。
彼女は宗教改革でフランスに絶大な影響を及ぼしたジャン・カルバンと同時代の人で、その影響を受けてプロテスタントに改宗したものですが、当時の領民は領主と同じ宗教でいる義務があったために、ナバル国民全部が自動的にプロテスタントになりました。
「ナバル王国」と呼ばれていますが、国としては半分独立しているような、スペインのような、フランスのような曖昧な立場でしたので、カトリックが主流のフランスでは宗教戦争に巻き込まれ、アンリ4世が「ナントの勅令」を出したのも、彼がプロテスタントの中心地の出身であることが大きかった訳です。
ナントの勅令は後に廃止されたり、ナバル王国自体もフランスに正式に統合されるために、フランスの国教であるカトリック国になったりで、この地のプロテスタントは様々な苦難に遭うのですが、博物館にはその歴史が展示されています。
禁教になったために国外に脱出したり、国内に留まった人達は隠れて礼拝を行ったり、用具を様々な方法で隠したり、残虐な処罰を受けたりと、日本の隠れキリシタンと同じようだったんですね。ポルトガルでも、隠れてユダヤ教を信仰していた人達の話を聞いたのを思い出し、全員がキリスト教徒のように思っていたヨーロッパにも、様々な宗教的な苦しみがあったことを思い知らされました。 |
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館自体は、女王の生家ではなく隠居所、プロテスタントの隠れ家としての意味が大きいようでした。館内はフランス語のガイド・ツアーで、英語は説明の紙が置かれていました。日本の観光客は滅多に来ないとのことで、日本語の説明紙はありませんでしたので、帰国後、訳して送ってあげました。
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博物館を出てしばらく行くと巡礼路らしいロマネスク教会がありました。13〜14世紀に建てられたSt
Pierre(サン・ピエール)教会で、宗教戦争時には破壊されたり建て直されたり、その後19世紀になって拡張整備されたということです。
教会前の広場からは丘の上に飾りの無い四角いだけの塔が見えます。まわりは城跡ということですが、ここは先史時代に既に要塞があり、その上に建てられたとのこと、なかなか面白そうな場所ですが、冬の間は閉鎖。
塔は19世紀中頃までは近所の人達が自宅の建材に石を持っていってしまい、もうすこしで完全に破壊されてしまうところだったようで、今残っているのはオリジナルの3分の1の高さとのことです。
17:08発の列車に乗るべく再び駅へ。何しろこれの次は18:38なのですから。
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市庁舎の辺りは広々、堂々としていて、この町が昔から近隣でも有力な市場町であったこと、一時地域の首都であったことを伺わせます。
サンチャゴ・デ・コンポステラ巡礼路は川を渡った反対側、バートルミュー教会の広場を含む「出発」と呼ばれる地域を通っており、近くには有名な13〜14世紀の「古橋」や、中世に巡礼達の宿だった場所がレストランとして残っているようですが、今回は列車の時間の関係でパス。駅がかなり離れているのが難点の町でした。
Pau(ポー)は賑やかな駅でした。
今までの駅は乗降客を全部数えることが出来そうでしたが、ホームで待っている人の数の多さに驚きました。
ジャンヌ・ダルブレがOrthezに創設し、アンリ4世がポーへ移動した大学が今もある学生の町ということもあるのでしょう。
また19世紀にはヨーロッパ初めてのゴルフ場が出来たこともあって、国際的な都市になったとのことです。
特にイギリス人が沢山やって来て、先ほど通ったOrthezなどは、プロテスタントである彼らに大いに助けられたところがあるようです。
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駅の前には川が流れていて、岸辺の並木が如何にもフランス風。
駅前広場と大通りを越えた向かいは、高〜い崖になっていて、その上には沢山のホテルが並んで、いかにもリゾートという雰囲気です。
崖の上までは無料のケーブルカーが通っているので荷物があっても高さは苦になりませんが、安ホテルは大きなホテルの裏側で、あんまり近くはないので、ケーブルカー乗り場に隣接してある小さなホテルがお薦めかもしれません。
でも日曜日には完全に閉まっていました、シーズンオフのせいかしらん。崖に面した高級ホテルに行くには、何もケーブルカーで直接昇らなくても、裏側にはなだらかな大きな町が広がっていて、タクシーもバスも使えるようでした。
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私は小さな荷物一つでしたからケーブルカーを利用。
このケーブルカー、車体の前後にはここで生まれたアンリ4世の紋章が誇らしげに付いており、手動なのに三枚の扉が一度に開くという優れものです。
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昇った所は大きなテラス、そこからホテル街の前はプロムナードになっていて、遠くにピレネー山脈がよく見えること、絶景でした。
こちらは汗をかくくらいの暖かさですが、ピレネーは雪で真っ白、相当深そうで、巡礼達はあの山を越えていったのかと、その大変さが思いやられました。こんなに雪の深い時期に行く人はいないでしょうが。
私の宿は崖に面していない、小さな宿でした。
明日朝食をどうするかと訊かれ、食事時間が8時からだと聞いてびっくりしました。スペイン国境に近いので、食事時間がスペイン並(遅い)と聞いてはいましたが・・・、シーズンオフということもあるのでしょう。明日は早いので朝食はパス。長い長い一日でした。
2月22日(土) 今日はポーから東に向かってSt Bertrand de Cominnges(サン・ベルトラン・ドゥ・コマンジュ)という所へ行くことにしました。
トゥルーズからの方が近く、Pauからの列車での所要時間は2時間弱ですが、この辺りに来て重要なのは、所要時間ではなく出発時間だということを痛感しました。
朝いちの列車が7:02発、次は8:16です。帰りは13:25発の次は15:01発で、これだとポーに帰着が16:24になります。
遅い列車を逃したら帰れない可能性もあるので、ひとつづつ早めにすることにし、行きは7:02発にし、駅までの時間に余裕を見て6:20には宿を出ました。
この地域の一番いけないこと、それは町中に「犬の糞」が落ちていることです。
パリでは犬の公衆トイレが出来たと、来るときの機内誌に載っていました。ここも昼間見たら、糞を包むビニール袋がアチコチに備えてありましたが、長い習慣は一朝一夕には変わらないのでしょう、注意して歩かないと危険です。
朝まだ真っ暗な道を、犬糞に細心の注意を払いながら歩きます。車は相当なスピードで来ますから、車道も危険です。
パリと同じように早朝から大勢の人が出て掃除をしていますが、飼い主が気を付ければ随分な省人力になるでしょうに。
ケーブルカーは原則地元民のためなので、早朝はまだ動いていません。歩いても下りはたいした労力ではないですね。駅には既に沢山の若者がいました。さすが学生町です。
始発なので列車は既に来ていました。今までフランスでは見たこともない綺麗な車輌!相変わらずイスの向きは固定でしたが、感激して写真を一杯撮ってしまいました。
折角の車内も乗客は一両に二人だけ、その後もポツンポツンと、合計で5,6人でした。
列車が走り出してしばらくすると、だんだん夜が明けてきました。真っ赤な朝焼けが雲に映って、それはキレイ。
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30分ほどすると泉で有名なルルドの駅に着きます。
聖女ベルナデットがマリアさまのお告げに従って掘ると泉が湧き出て、その水が数々の奇跡を起こすことで知られていますが、列車は教会の脇を通るので、何年か前に来た時のことを懐かしく思い出しました。
科学的には理解できない数々の奇跡は今も起き続けているとのことですし、何よりも聖水が全く無料というところに真実味を感じます。
あの時、スペインから貸切列車で来たという牧師さんに会い驚いたものですが、ここはスペインとの国境に非常に近い所だったのですね、ピレネーもド迫力で迫ります。
元々はサンチャゴ・デ・コンポステラの巡礼路とは関係なかったのですが、今では通過路の一つになっているそうです。
途中の(一応)大きな駅Tarbeでもピレネーが真近に見えました。
その先のLannemezanという駅、名前も初めて聞きましたが、珍しく駅の回りに人家が沢山、大勢の人が観光バス(!)に群がっていました。何があるのでしょう。
ここから目的駅Montrejeau(モンレジュー)までの15分間、景色がまた素晴らしいものでした。
右は山が迫り、左は大きな修道院風の建物、牧場には牛が放牧されています。
Montrejeau駅には定刻8:15に着き、私を含め5人ほどが降りました。
ここから目的のSt Bertrand de Cominngesへは、線路はあるのですが、列車の運行は日曜日のみ!。
最初はこれを目指して日曜日に来ようかと思ったのですが、ポー発の一番列車では間に合わないのですね。着いた先にタクシーがあるかどうかも不安ですし。
平日はバスが走っていますが、それも7:42の次は11:20、次は14:05という調子、連絡なんて考えないのかしら。
最初からタクシーのつもりでしたが、駅前に客待ちは勿論おらず、呼ぼうにも電話番号が分かりません。ガランとした駅で掃除している人に訊いても、タクシーなど呼んだことがないと言うので、やっと掴まえた保線士のような人に頼みました。
駅の前にはタクシーではないけれど、人待ちらしい車がいくつか停まっていました。見渡すと駅から真っ直ぐに太い道が伸び、その先の崖の上には大きな建物がぎっしり並んで相当大きな町に思えました。
ここならばタクシーもあるかなと思ったのですが、来るまでに丁度30分かかりました。町に二台しかないので結構忙しいのだそうです。保線士さんに気を遣わせてしまいました。
St Bertrand de Cominngesまでは車で10分でした。
平らな大地の中を走っていくと、丘の上に写真で見たロマネスク教会が現れます。
ここはサンチャゴ・デ・コンポステラ巡礼路から少し外れるのですが、地図によってはアルルからのコース上に載せているのもあり、教会にもルート上であると書いてありました。
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町自体は紀元前72年、古代ローマの政治家ポンペイウスによって造られたとかで、丘の下に広がる平野には、ローマ時代の浴場、市場、劇場、寺院などの礎石が残っており、近くには古代食を食べられるレストランもあります。
他民族の侵入で一度は完全に破壊され、600年ほど後にベルトランという司教が、独特の霊気が感じられるこの場所に、Sainte-Marie大聖堂を建てたということです。
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タクシーで着いてみると大聖堂前の広場は無人。列車が来ない日は完全休みかと一瞬驚きましたが、10時には人が来るだろうと言ってタクシーは帰ってしまいました。
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まずは町中の探訪とばかり、さっきタクシーで入った門Porte
Cabiroleまで行って入り直しました。門から見る町は、まさに中世そのまま。
「郵便局」と書いてある家は15世紀、そのすぐそばの木組みの家は16世紀ということでした。
大聖堂は11〜12世紀に建て始められ、完成は14世紀ということです。
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後で町の外まで行って遠景を楽 しみましたが、広い平原のただ中に、高い寺院を囲んで家が山裾に並ぶ、形は違うけれどモンサンミシェルを思い出しました。
そうこうしている内に、数は少ないけれど観光客もやって来ました。
たった一軒だけれど土産物屋もオープン。係員らしい人が来て大聖堂の鍵も開けてくれました。
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聖堂の入り口はロマネスク建築らしい彫刻で飾られており、建物の中も立派で特にオルガンに目を惹かれました。
聖堂内は自由に見学出来ますが、聖歌隊席周辺はカバーがしてあり、夫婦連れの観光客が隙間を覗いて口惜しがっていました。
何故なら、聖歌隊席は有料で、別の入り口から内庭経由で入るようになっていました。
入場料を払おうとしたら、係の人が「さっきから町中を歩いていただろう」と話しかけてきました。大きな犬が二匹もお供し、糞に閉口しながら歩いているところを、車から見たとのこと、この辺りでは東洋人はやはり目立つのですね。
オルガンを含めた内装は16世紀中葉作品で、この寺院の裕福さを物語る豪華なものです。
ゴシック様式の内庭は13世紀から建築が始まったとのことですが、様々な彫刻が施された石の柱群と、窓外に迫る荒々しい山の景色が印象的でした。
大聖堂の前には観光局とおぼしき立派な建物があり、中ではここだけでなく、この地方全てに亘る様々な本が売られていました。充実した資料に、シーズン中にはどれほどの人が来るのかが思われました。
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町全部の観光に要する時間は多分一時間半くらいでしょう、11時過ぎには全て見終わってしまいました。帰りの列車に間に合うようにとタクシーを頼んでおきましたが、それには早すぎる、電話番号が分からない、戻っても見るものが無い、という訳で、山の下の方へ歩いて行ってみることにしました。
裏口に当たるPorte Majouには聖ベルトランの像がはめ込まれていました。
坂を下っていくとオレンジ色の屋根の農家が沢山並んでいて、その軒先には鮮やかな黄色のトウモロコシが沢山積んでありました。
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道に沿った広い牧場には、大きなロバが三頭、馬のように大きく、態度も大きく、私を睨んで近寄って来ます。バスク独特の種というロバでしょうか。手入れが悪いのかよく見ると背中の毛が絡まって、野生のバッファローのよう。ヒマなので暫くにらみ合いの相手をしてやりました。
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山の中腹には古代円形劇場の跡らしいもの、山から少し離れるとローマ時代の風呂や寺院の遺跡が沢山あります。
再度坂を上って町に入ると、12時過ぎたので、全てがお休みになっていました。大聖堂も鍵が閉まり、観光局も閉鎖になっていました。
St Bertrand de Cominngesについて日本ではガイドブックが一冊しか見つからなかったのですが、こちらに来て見る写真にはどれも、山の下にもう一つロマネスク様式の教会が写っています。大聖堂前の広場からは反対側に当たるため見えませんでしたが、こことセットで語られるサン・ジュストという教会が麓のちょっと離れた所にあります。
こちらも重要な教会で建物の彫刻なども有名なのですが、それを知ったのは、閉まった大聖堂前の広場でガイドブックを読んでいる時でした。
今から歩いてはとても行かれないし、タクシーを呼ぼうにも電話番号が分からない、頼めそうな場所は皆閉まってしまった、迎えは時間ぎりぎり、ということで、今回は割愛せざるを得ませんでした。
近くにあった「旅籠(はたご)」で軽く昼食の後、また大聖堂前でタクシーを待っていると、小学生らしい子供達が大勢やって来ました。とってもうるさかったのですが、課題が出ているらしく、揉み合いながらも議論をしていました。そして何を勘違いしたか、私にまで「この大聖堂は、いつ建ったの」と訊いてきました。突然のことで私もちょっと引いてしまい、「知らない」と言ってしまいましたが、ガイドブックを読んだ直後だったのですから教えてあげれば良かったですね。揉み合う子供達の間を縫ってタクシーが来たので、子供達の大歓声に送られて出発しました。
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13:25発の列車でポー着は14:50。まず駅で明日の列車の時間を確認です。
ポーの駅は乗降客多数、TGVも来るし、二本の始発路線もあるのですが列車の数は少なく、日本で言う「模造紙」一枚に書いた時刻表が、毎日張り替えられます。曜日によって少しずつ時刻表が変わるのです。ホーム番号を手で書き直しているところも目撃しました。
割と大きな文字で、全列車が一枚の紙に書けてしまうのです。一日中で30本くらいでしょうか。明日は日曜ですから、普段より列車は少な目です。出発は8:13発と決まりました。
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ケーブルカーで昇り、プロムナードに沿って左へ歩いて、アンリ4世が生まれたというポー城へ向かいました。
お城は後のフランス王の生家としては小さいものですが、内装はなかなか立派でした。このお城は観光客に公開するよりは保存に重点を置いているとかで、内部はガイドツアー、例によってフランス語の分からない人のためには英語、スペイン語のパンフレットが置いてありましたが、フランス語の説明と英語のパンフは随分違うように思えました。
アンリ4世は生まれた時、揺りかごとして亀の甲羅の内側に置かれた、ということで、宝石で飾り立てられた甲羅に旗などが添えられたものが置いてありました。
ポーを中心とするベアルンと呼ばれるこの地域は元々母親の領土ですが、ジャンヌ・ダルブレはここからパリやロワール近辺のお城まで何往復もしているのですね。お城に飾られていた食器や化粧道具を見て、これらを全部持って移動していた昔の旅の大変さを思ったものでした。
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ポー市内にはドガやルーベンスの絵を所蔵している美術館もあるのですが、朝から歩き回ってもうクタクタになったので一度ホテルへ戻って夕食まで休憩しました。
2月23日(日)
ホテルは夜と朝はスチームが入ります。日中は汗をかくほどですが、朝晩は寒いのです。
朝テレビでニュースを見ていたら、サン・セバスチャンなど、スペイン側バスクでデモなど大騒動の報道、相変わらずやっているのですね。
今日はOloro(オロロン)という町まで列車、そこからバスに乗り換えてスペイン国境を少々越える予定です。
列車は外側がボロい二両編成で、珍しく発車のベルが鳴りました。車内はまあまあでしたが、2000年のポスターが貼ったままで、日本で毎日綺麗なポスターを見慣れた目には驚きでした。イスだけ新しくても他は古いらしく、車掌室のドアも体当たりしなければ閉まらない、「テクニックよ」なんて自嘲していました。
列車の所要時間は30分程、沿線はほとんどが牧草地だけれど、人家も案外沢山あって、プールつきの家、ピレネー犬を飼っている家、かなり大きな教会など、意外に裕福な印象も。
段々にピレネー山脈が迫って来、でも見える山に雪が少ないのは、山の真下まで来てしまったので、低い山に隠れて雪山が見えなくなったせいでしょうか。
列車の終点Oloron-Ste-Marie(オロロン・サント・マリー)へは8:45着。駅前にタクシー!もいる大きな町でした。
すぐ前に待っているバスに乗換えて、スペイン方面へ向かいます。車内は10人ほどで、中にいたベルギー人が、「フランス人、スペイン人、日本人にベルギー人、国際的だな〜」と言うと、運転手が「車はドイツ製だ」と合いの手を入れる、和気藹々で出発しました。
中には祖父母に連れられた小さな子供がいて、「スペイン語が出来ないボクを、向こうのおばあちゃんはどう思うだろう」なんて悩んでいました。子供はすぐ覚えるのですけれどね。
この道はサンチャゴ・デ・コンポステラ巡礼路の二つあるピレネー越えの一つ、ソンポル峠へ向かうのですが、途中にはなかなか大きな集落がいくつもあり、昔は列車も通っていたということで、川に沿って錆びた線路や駅も残っていました。
Bedousという町には中世の街並みが残っているとのことで、観光案内所もあり、バスのお客の大半は降りてしまい、反対方向Oloronへ向かうバス停には人が一杯でした。
シャトーのある村、昔の要塞跡などを通過し、Etsautという集落で、残ったベルギー人と私、運転手は時間調整のためにコーヒーブレイク。フランスでは日曜日には商用車(貨物トラックなど)の運行が禁止なので、道が空いていて、早く着いたようです。
Etsautのように最初にEtが付くのはバスク独特の名前なのですね。雰囲気のあるステキな集落でした。
その先は段々に雪が深くなり、ついには崖の陰に大きなツララも見られるようになりました。
真っ白な壁を縫って進むと、ソンポル・スキー場。日曜日のため沢山のスキー客が来ていて、駐車場からはみ出た車が道に列をなしていました。
更に行くと国境。「アラゴン地方」という立て看板を過ぎると今では検問所の跡があるだけです。その先にはCandanchuという名のスキー場、中国人が開発したスキー場だと運転手さんが教えてくれました。ちょっと苗場を思い出させる、沢山のホテルが列をなしている、その前面が広大なスキー場になっていて、カラカラとリフトの鳴る音が聞こえました。
そのすぐあとは川沿いに工業地帯、そしてバスの終点Canfranc(カンフラン)には10:15に着きました。
私は同じバスで引き返すのですが、ベルギー人はここから巡礼路を辿ってJaca(ハカ)というスペインの町へ行くとのことで、運転手さんから道を一生懸命訊いていました。
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Canfrancは両側を山に挟まれた場所ですが、巨大なルネサンス・スタイルの立派な駅があります。さっき見た古い鉄道は、この駅とも連絡していたようですが、1970年に何か事故があったとかで、今は使われていません。放っておくのはもったいないような、それは立派な駅です。この鉄道建設を巡っては、フランス・スペインの間で様々なことがあったようですが、今は昔のお話。
バスの発車までちょうど一時間あるので、先ずは観光局へ。
巡礼路らしく、事務所の前には帆立貝の形をした水飲み場がありました。
町には大きなホテル、土産物屋、食べ物屋もありました。
折角スペイン領内に入ったのだから何か土産を、と思って、ふっとお金(両替)のことが頭をかすめてドキっとしました。でもどこもユーロだから両替の心配はいらないのですね、便利になったものです。
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帰りは運転手さんと二人だけ。自分の兄の奥さんも日本人だ、と言って名前を書いた紙を見せてくれましたが、それは中国人の名前でした。
夏には日本人がワンサと来ると言っていましたが、中国人と本当に区別できているのかしら。
帰りはコーヒーブレイク無し、沿線の草地ではお年寄りが何グループもハイキングをしていました。のどかな場所です。
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12:40、Oloron-Ste-Marieの駅でバスを降り、列車を一本遅らせて、町の見物をすることにしました。この街の有名なSte-Marie(サント・マリー=マリアさまのこと)という教会へ行くことにしました。大きな町で観光局もあるのですが、日曜のため休み、お店も殆どが休みです。ひと気の無い住宅街はかなり立派な新しい家ばかりでしたが、教会の辺りに来ると一転、中世風の街並みに変わります。
礼拝をしているのでは、と心配でしたが、教会の中は無人でガランとしていました。私は原則として教会内部、特に祭壇には敬意を払って写真は撮らないことにしているので、表に出てから、外側のグロテスクな彫刻の写真は沢山撮りました。 |
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この街にはもう一つ、Sainte-Croixという有名な教会が川向こうにあり、バスの運転手さんは「道は簡単」と言っていましたが、地図が入手出来なかった上にお上りさんの悲しさ、随分時間がかかってやっと辿り着きました。
ここも彫刻が有名なのですが、残念ながら現在工事中で、外に付いていた彫刻も全部剥がされていました。教会の周りの家々は超中世風、そこから駅へ向かう道への坂道も、まるで昔に帰ったような雰囲気でした。
日曜なので町中のお店が閉まってゴーストタウンのようでしたが、やっと一軒開いている店でサンドイッチを買って、駅へ向かいました。
私はポーの駅に着いてから戻る時間の余裕があるので、荷物は宿に置いたままで出てきましたが、Oloronの駅で見ていたら、地元の人らしい家族連れが来て、「えっ、ポーの駅で連絡に1時間半もあるんだ・・・。」とため息をついているので、ずっと住んでいて今頃知ったのかとおかしくなりました。普段はきっと自動車で移動しているのでしょう。
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ポーまでの30分の間、それでもこんなところで途中下車する人もありました。
先日見たよりは小さいけれど、毛がモコモコのロバ(こちらがバスク独特の種?)、元気なニワトリ、ホロホロ鳥、バスク名物のベレー帽を被ったオジサン、車窓からの景色はなかなかのものです。
ポーには14:55着。宿まで行って荷物をピックアップ。今夕の宿から電話があって、閉まっていたら強く叩いて、と伝言があったとのこと、あちらも日曜日なのですね。
戻ったポーの駅は、相変わらず混んでいる感じ、買ってもとても全部読めないので、売店で新聞の見出しだけを盗み見しましたら、「ミッテランがブッシュに宣戦布告」という勇ましい見出し、案じていましたが戦争まで、未だ少し時間がありそうです。日本では「ドビルパン」と書かれている外相、こちらでは「ビルパン」だけなのですね。
更に駅の案内板を何気なく読んでいたら、「この度、政府のお達しで、駅のロッカーが全面的に廃止になりました」というのが目に留まりました。これって列車で移動している旅行者にとっては大事件でしょう。これからは駅前旅館が絶対有利ということです。
また、ポーと私の目的地バイヨンヌの間は線路工事のため一部不通、路線を変えたり、バスの代替え運行をしています、とも書かれています。車中で何かアナウンスされても聞き難いのでどうしようと思いましたが、みんなのするように真似すればよいか、と腹をくくりました。
線路は先日立ち寄ったOrthezとDaxとこれから行くBayonne(バイヨンヌ)が三角になっているのですね。通常はPauからOrthez、Bayonneへ真っ直ぐに行くのですが、工事中の現在は一度Daxに寄ってBayonneへ行くので、30分ほど遅くなります。
Daxからの車窓は相変わらず松の木の植林がいっぱい、海が近いので沢山の水鳥も見えました。
Bayonneへは18:20着、まだまだ明るいけれど、夕方になると、さすがにちょっと寒いです。宿は駅のすぐ横、ちょっとショボイけれど荷物を持っているのでこれが一番楽です。明日の時刻を確認し、ゆっくりなので朝食も予約してから部屋に入りました。
2月24日(月)朝食はコンチネンタルなので、パンと飲み物だけ、頼めばジュースなども出るけれど、昨日の夕食が多かった私は、パンを残して心配されてしまいました。
駅には窓口が二つしか無かったことを思いだし、早めに駅へ。
予定では明日は、バイヨンヌからSt Jean de Luz(サン・ジャン・ドゥ・リュズ)へ行って、またバイヨンヌに戻ってからTGVに乗るつもりでしたが、時刻表をチェックしたらSt Jean de Luzからバイヨンヌへ戻る列車が非常に少なく、乗る予定のTGVはSt Jean de Luzにも停まることが分かったので、乗車駅を変更しようと思ったのです。
こちらの窓口は、並んだ順が最優先で、急いでいるからと言ってもなかなか順番を譲って貰えないのですが、さすが窓口がわずか二つともなると譲ることもするのですね、見ました。
私はマトモにならんで出発駅を「手書き」で変えて貰いました。フランスは結構ハイテクの国ですが、手書きも多く、ここが四角四面でないラテンの良さです。
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今日の行く先はSt Jean Pied de Port(サン・ジャン・ピエ・ドゥ・ポール)、サンチャゴ・デ・コンポステラのもう一つのピレネー越えルートのフランス側の最終地点です。
バイヨンヌのホームは3本、ホームには番号とアルファベットがふってあり、番号に従ってホームに移動し、ホームのA側、B側、という訳です。
St Jean Pied de Port行きとしてやって来たのは、たった一両の列車、中はまあまあでしたが、外観は超古く、エナメルは落ちてツヤが無く、一等と書いた字の上にバツがしてありました。
一両の片側が一等、反対側が二等と書いてありましたが、勿論全部が二等、でも驚いたことに短い一両の車輌の真ん中に新しいトイレが付いていました。 |
乗客は15人くらいでしょうか、全員観光客という感じでした。
列車は最初は家々の軒をかすめるように走り出しましたが、すぐに緑の牧場が点在する山の中に入りました。バスク地方は家が大きいと聞いてきましたが、一軒一軒が大きいだけでなく、学校らしきものは木造でも4、5階建て。かなり大きな集落がいくつも点在していました。
車窓からは車に追われて歩く羊の群、毛足の長い羊たち、もぐらに掘り起こされた土、美しい谷川、川鵜などが見え、行く手にはピレネーが白く迫ってきます。
雪を戴く高山と裾野に広がる牧草地・・・、スイスや、ドイツのノイスバンシュタイン城近くを思わせる形容ですが、一つだけ違うのが、ゴミ。川には廃車から紙、ビニールまで、沢山のゴミが放ったままになっているのです。これさえ片付ければ、あちらに何の遜色も無いのに・・・、糞といい、このだらしないところも、ラテンの特徴なのでしょう。
8:45にSt Jean Pied de Port駅着。旧市街は駅から少し歩いたところにあります。
駅の周りの家々は本当に大きい、ほとんどが4、5階建てなだけでなく、フロアごとの天井が高いのでしょう。まさに豪壮な家々です。昔は牧草や穀物、家畜までも家の中に収容していたとのことですが、その名残でしょうか、屋根が大きいのでなおさら大きく感じられます。
バスク地方では「バスク語」という、どこ起源とも知れない言語が話されているとのことですが、途中で見つけた看板にはフランス語と両方が書いてありました。
アジ看板(古い表現!)も至る所にありましたが、フランス語にもスペイン語にも非常に少ない「K」の文字が多いこと、「X」も多く、また母音が多くローマ字のような印象を受けました。
でもフランス語やスペイン語に似た言葉も多く、それは長い間に影響を受けたということなのでしょう。海で隔てられている訳ではないのですから、混ざるのも仕方ないでしょう。
旧市街は城壁に囲まれているのですが、その外側には市(いち)が立っていました。毎週火曜日と言っていましたからタイミングが良かったのでしょう。
それは後にして、まず門の中に入ってみました。大通りに出て、ずっと左に行った所が、巡礼路の入り口「サンジャック門」です。
因みに「サンチャゴ」はスペイン語で、フランス語では「サンジャック」、日本では「聖ヤコブ」という名になります。
周りには巡礼のための宿、救護所などがちらほら見られます。今でも機能しているのでしょう。
門の真上は要塞ですが、現在は学校になっているとのこと、石垣の間の広場がバスケットボールのコートになっていました。
ここはスペイン国境の要衝ですから、この要塞からは周りが一面に見渡せ、絶景でした。
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さっき来た道を逆に行くと、休息の後に巡礼がサンチャゴ・デ・コンポステラへ向けて出発したスペイン門があります。ここを出るともうピレネーの険しい山だけになるのですね。 |
両門のちょうど中間に川が流れていて、その橋のたもとに聖母教会があります。
教会に沿った道を行くとハイキングコースに出るらしく、そんな格好の人達が行き来していました。
この町の周辺は、巡礼路だけでなく自然探索のハイキングも盛んらしく、沢山の路線が示してありました。
近所の牧場では馬を使った3〜7日の小旅行も行われています。バスク地方色とサンチャゴ・デ・コンポステラ関連の教会を巡る、車での周遊コースも各種案内がされていました。 |
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教会の周りが商店街で、バスク名物としては、布製品(刺繍をしたナプキンやハンドタオル、シーツ、エプロンなど)、フォアグラ、ニンニク、唐辛子などが売られていました。
そういえばバスク出身のアンリ4世は、生まれたときに土地の習慣として唇にニンニクの液を塗られたとか、ニンニク臭が強くて、最初に結婚した奥方から嫌われていたとか、ニンニクに関する逸話がいくつか伝えられています。
赤い丸まった卍のような印がバスクのシンボルマークのようです。
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市場に戻ってバスク菓子とフォアグラを購入。そろそろ現金が心細くなって来ました。
空港のキャッシュ機でトラブルがあってから恐ろしくて避けてきましたが、このままでは食事も出来なくなりそうなので、勇気を出して機械に挑戦。今度は新しい番号で無事現金を入手でき、一安心。
来る途中に郵便局があったのを思いだし、ここ独特の切手でも無いかしらと向かいましたが、気が付かない内に12時を過ぎていたのですね、例の如く閉まってしまいました。
よく見ると町中の店もパン屋までゾロゾロ閉店準備、市場までが片付け始めていました。さっき買ったバスク菓子と飲み物で軽く昼食を済ませ、早めに駅へ行きました。 |
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13:32の次はいつでしょう、ここは一日4本くらいしか電車がありませんでした。
駅でよく見ると、駅名としてSt Jean Pied
de
Portの他にもDONIBANE GARAZIと小さく書いてあり、どうもそれがバスク語での駅名のようでした。
駅には何枚ものポスターが貼ってありましたが、それもバスク語で書かれていました。
また一輌しかない電車が来て乗り込むと、さっき窓口で何やら揉めていた女性と同席になりました。
アメリカ生まれでフランス育ちという彼女が英語で話しかけてくるので、絶対フランス語、という固い決意も揺らいで、色々話をしてしまいました。
この辺りを旅行するには案外バスが便利、日本で言う回数券のようなものがある、お薦めの町はAngletなど、教えてくれました。
旅行者らしい話題、そしてキップのことであんなに揉めていたので遠くからの旅行者だと思ったら、「ここから20kmくらいの小さな村に住んでいるの」、と言うなり、途中の駅で降りてしまいました。
名刺をくれたのであとで地図を見たら、St Jean Pied de Portからの方が余程家に近く、不思議な人でした。 |
14:32バイヨンヌ着。フォアグラが重いので一度宿へ戻り、改めてバイヨンヌの町を観光に出発しました。駅前旅館は便利ですねぇ。
駅の先、大きな橋を渡ると町の中心地へ出ます。
橋を渡った所には激しい表情の坊さんの像、Cardinal(枢機卿)と書かれていましたから高僧なのでしょうが、あの表情の険しさは尋常ではありません。誰なんでしょうね。
ここフランスの南西端は、昔からカトリックとプロテスタントが激しく争った場所ですから、何か関係あるのかも知れません。
市庁舎はオペラハウスと同居、同じく中にあると思った観光局は大分離れた場所に移動していました。
私は来る前から、そして来てからも、バスクという地方の呼び名について分からないことだらけでした。
バスクはフランスとスペインに跨った地域、ですが、アンリ4世は「ナバラ王」なのに生まれた場所、彼の両親が治めていた場所は「ベアルン」と呼ばれ・・・。どれが正式の名前で、どの地域がどういう名前なのか観光局で質問したいと思いましたが、そんなこと訊く人はあまりいないのでしょうか。詳しいことは言えないと言って、もっと大きいベアルン地方観光局へ行くよう言われました。
資料としては「バスク語について」というパンフレットをくれました。教会に行った後、迷いましたがもう疲れてしまったのでベアルン地方観光局はパス。
BayonneのSte-Marie大聖堂は、13世紀から16世紀の半ばまでかかって建てられたゴシック様式。
アキテーヌの一部でもあるこの地域は、一時イギリス領だったこともあり、それを表す、イギリス領だった時のシンボルである豹(ひょう)の後ろに、フランスの象徴である百合が従っている装飾があります。
内庭は無料ですが、周りが工事中で、中が見えるのになかなか入れないで、みんな迷っていました。
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バイヨンヌの特産品としてはバイヨンヌハムが知られていますが、ここはフランスにチョコレートが入ってきた最初の町ということで、チョコレートも名物です。
来る前に読んだ本ではチョコは新大陸アステカからスペインにもたらされ、そこから入って来たと書いてあり、なるほどスペイン国境の町だものと納得していましたが、バイヨンヌでもらった小冊子には、宗教異端裁判に追われてポルトガルから逃れてきたユダヤ人がバイヨンヌに上陸した時、彼らの荷物の中にチョコの作り方を書いた貴重な資料が入っていたと書かれていました。
いずれにせよチョコが大変気に入ったここの人達は、製法を工夫、洗練し、その伝統を守っているとのことで、町はギルド(同業組合)もあります。
チョコレートが最初に入ってきたとき、それはココアとしてだったようですが、町にあるいくつかの有名なチョコレート店の中で一番有名な店はCazenave(カゼナーブ)と言います。
硬いチョコレートは何処の店でも大差は無いけれど、ココアはカゼナーブに限ると聞いてきたのですが、月曜日は定休、ちょっとがっかりしました。
仕方なく、硬いチョコレートを買うべく周りに沢山ある他のお店に行きました。何と唐辛子入りのチョコもあるのですね。
ラップに延ばして丸めたもので、買おうかと思いましたが、全く「箱」の用意が無いと聞いてびっくりしました。
私は普段の旅行には大きめの空のタッパーを必ず持っているのですが、荷物が小さい今回は省略したのが失敗でした。大きく延ばしたのはいずれにせよ持ち帰り不可能なので、キャラメルの二倍ほどの大きさのチョコの詰め合わせを買いましたが、これも箱が無いので、家に帰って見たら随分潰れていました。
バイヨンヌはこの地方の中心地ですから、駅からは私が今日行ったSt
Jean Pied de Portや先日行ったDax,スペイン領も含んだバスク地方周遊のバス・ツアーが沢山出ていました。
バイヨンヌの町でもう一つ特筆すべきは物価の高さ(ちょっとオーバーですが)です。大した土産は買わなかった私があちこちで買ったのが絵葉書ですが、バイヨンヌでは一枚0.95ユーロでした。St
Jean Pied de Portでは0.35ユーロ、他の場所は大抵0.40ユーロでした。
2月25日(火)
いよいよ最後の日。ゆっくり出発なので今朝も朝食を注文しました。
昔バイヨンヌに住んでいたという同宿の男性が話しかけてきたので、今日はSt Jean de Luzへ行くと話しましたら、あそこは雨が多いから傘を持っていくようにと言われました。どうせ荷物全部を持っていくのですが、ご忠告有り難く、傘を外に出しておきました。
外は前日より風が強く、雲も下がって、なるほど雨でも降りそうな天気です。でも何もSt Jean de Luzだけ雨が多いのでは無いでしょう、なんて思いながら駅へ向かいました。
バイヨンヌ駅の時刻表はポーのように紙ということはありませんが、ホールに掲げられた大きな表示板に、存在する全ての列車を表記し、今日運行する列車の頭に小さな電気が点く、というもので、今日一日合計でも40本くらいでしょうか。
このバイヨンヌも、私が向かうSt Jean de Luzも、パリ〜ボルドー〜スペイン国境の幹線上にありTGVも停まるのですが、普通列車は極端に少なく、バイヨンヌ発8:40の次は10:26です。
列車は何と汚い外観!。内部はマアマアの二両編成。
列車が走り出すと左側に運河が見えてきました。
遠景にピレネーの見える川べりを人が散歩していて、とても優雅な感じ。次の停車駅は観光地として有名なビアリッツ、シーズンオフなので、乗降客は多くはありませんでした。
昨日バイヨンヌ観光局でふと手にしたビラには、3月にビアリッツの教会で日本人ピアニスト谷村由美子さんのコンサートがあると書いてありました。有名な観光地とはいえ、日本ではあまり知られていない、こんな場所でも日本人が活躍しているのだなあと、感心しました。
次の停車駅がSt Jean de Luz、案じていた通り、コインロッカーも手荷物預かり所もありません。コインロッカーなどは取り外した跡がまだ生々しく残っています。こんな所にも戦争の影響、平和に楽しく旅をしたいものです。
仕方なくコロコロバッグを引きずって駅の外へ。ガイドブックには「駅の外に出ると潮の香が」と書いてあったのですが、ここSt
Jean de Luzを始めとするビスケー湾は、つい先日石油タンカーが座礁して海岸一帯が重油まみれになったそうで、潮の香はせず、また既に重油もほとんど取り除かれたのか、油の臭いもしませんでした。
座礁した船はPrestige(名声・信望・威信などという意味)という名前だそうで、皮肉なものですね。
駅の前は大した交通量でもないのですが、車は凄いスピードで通過するため、地下道を「使って渡らなければならない」ので、エレベーターを使って降りましたが、これがオシッコの臭いで鼻を突くよう。潮の香どころか、こんな臭いを嗅がされるとは・・・、昇りエレベーターは壊れていました。
海の方へ行こうと思ったら、何やら空バスケットを抱えたオジサンが歩いているのが見えましたので、近くに市場があるのでは、とついて行きました。
本当にバスク地方のどの町でも、道に犬糞の多いこと、どうにかしてよ!と叫びたくなるほどです。自分だけでなく結構重くなったコロコロバッグの軌道にも注意しなければならないのですから。
バイヨンヌの観光局で貰ったガイドブックには、糞の始末をしない飼い主は90ユーロの罰金、再犯(!)は180ユーロと書いてありましたが、そんな警告は何の効果も発揮していないです。
市場はフランスの各地で見かける同じ形の建物と、その周辺に広がっていました。売っている物は昨日のSan
Jean Pied de Portと同じようですが、新鮮な野菜や果物が目立ちました。
海産物もありましたが、普段はもっと多いのでしょう。市場の周りには店舗を構えた食料品のお店も沢山ありました。
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港の方へ行ってみると、漁港らしい活気は全く無く、クレーンだけが、海中から重油で真っ黒になった縄を引き揚げていました。もう作業は随分進んだのでしょう、水面の油は薄く、臭いがひどいとは思えませんでした。
今度は海岸へ行ってみました。海に面してバスク風の大きな家が沢山並び、その前を堤が海を囲むように走っています。
「黄金の砂」と評される美しい浜辺と聞いていたのですが、流れ着いた重油から有毒物質が出ているかも知れないということで、砂浜は立入禁止になっていました。機中のニュースで見たと同じ、白い服を着た男性が数人、バケツを片手に砂の中から黒く見える物を拾い上げていました。
海は穏やかで、夏にはさぞ賑わうことと想像されますが、立入禁止は何時までなのでしょう。 |
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堤沿いの家は民宿なのでしょう、二階部分から堤に橋が架かっており、そのまま海に出られるようになっています。ここの家々も、驚くほどの大きさです。 |
町中に戻って、まず王女の館へ。
この街は太陽王ルイ14世がスペインの王女と結婚式を挙げた町として知られています。
あの大王の結婚式の場所としてはちょっと意外な小さな漁師町ですが、何と言ってもほとんど両国の国境上ですからね。
その時に王女が滞在した館は、ピンクの煉瓦が貼られた優雅な建物です。
この結婚はピレネー条約によるフランス・スペイン和平を促進するための政略結婚で、ルイ14世に付いてきた母后もスペイン出身の政略結婚ですが、お嫁に来てからずっと両国は戦争をしていたわけです。ルイ14世の両親ルイ13世達は、フランス・スペイン両国の王子・王女同志が結婚しましたので、ルイ14世夫妻は父方からも母方からも従兄弟同志、という濃い親戚でした。 |
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王が滞在したのは市庁舎の隣の建物。こちらにも行ってみました。市庁舎の前にはルイ14世の小さな銅像があります。
結婚式が行われたのは王の館から200メートルくらい離れたSt
Jean Baptiste(サン・ジャン・バチスト=洗礼者ヨハネのこと)教会ですが、外見は質素の一言に尽きる無装飾の教会の、内部は大変優雅なものです。 |
漁港の教会らしく、天井からはシャンデリアと共に船の模型が下がっています。祭壇の背後はスペイン風に全面が金の彫刻で埋め尽くされています。
ステンドグラスは一つだけが丸く祭壇の真上の天井につけられていて、まるで王冠のようです。
祭壇の真向かいと左右の壁には観覧席が三、四階付けられ、その細い木の観覧席に結婚式の時には人が満員になったでしょうに、よく崩落しなかったものだと思うような華奢な席です。
ここの教会は現在でもバスクで最大、最高の教会とのことですが、その故に結婚式場に選ばれたのか、王のために改装されたのか、大変優雅な雰囲気に圧倒されました。お金を入れると照明が点きます。
教会の来歴など、もっと詳しいことが知りたいものです。
教会の前は町一番のショッピング街、ここでも建物の大きさに圧倒されます。
ひとつ路地を入ると大半がレストランですが、その名前はほとんどがバスク語で、興味を惹かれました。
教会の真ん前に、可愛い文房具屋さんがあり、そのショウウインドウにはキティちゃんグッズが沢山あって、こんなフランスの一番端にまで進出していることに驚きました。
私は文房具屋の店先を覗くのが大好きなのですが、ここは動物や昆虫の形をした様々な事務用品、デザインの面白い時計、スタンドとシェードにお揃いのプリントが施してある電気スタンドなど、欲しいものが一杯でした。
ルイ14世の結婚式には町の人達が沢山のお祝いを献上したのですが、中で特に王の母后に気に入られたことで有名な「マカロン(アーモンドと砂糖、卵白だけで作った菓子)」が、この街で一番のお土産品です。
オリジナルの製法を今も守り続けている「Adam」という店を探していたら、「何を探しているの?」とお巡りさんから声を掛けられました。事前にこのお菓子のことを書いた本に「アダム」とカナが振ってあったので「アダム」と答えると、それは「アダン」のことだね、と場所を教えてくれました。
王の館の目の前にあるそのお店の中には、マカロンの他にチョコやバスク菓子などもありましたが、バスク風俗を描いた箱に入ったマカロンは一箱20.95ユーロ。私がいつもドゴール空港で買うノルマンディーのビスケットは同じサイズの箱に入って6.50ユーロからありますから、余りの高さに驚いて二箱だけと、試食用にバラ売りを一つ、それとチョコを魚の形にしたものを少し買いました。
この立派なお店の前にも、立派な犬糞が複数落ちていました。
魚の形のチョコは普段から売っているのでしょうが、家に帰ってよく見たら「魚の回帰」と書いたタッグが付いていました。重油で汚れた海の再生を願ってのことでしょうか。
バスク地方ではマカロンの他に、イスラムの影響もあるといわれる、色とりどりのマジパンで作ったトゥーロンも有名なのですが、この店には無かったので、別の店へ行ってこれも買いました。
マカロンを口に入れながら再び街の中を散策していたのですが、マカロンのおいしさに仰天、高くてももう少し買い足そうとAdamへ行きましたが、残念、お得意の「昼休み」が、ここでは12:30から始まるのですね。
他の店もガラガラと頑丈な網戸が下りて店じまいが始まりました。教会も閉まりました。行くところはレストランしかありません。
マカロンはとても甘いので、二つ目になると少々食傷、ということは帰国後悟りました。
帰りの列車には大分間があるので、Adamの前にあるレストランに入り昼食を摂ることにしました。
この街は非常にバスク色の濃い町、と聞いていましたが、このレストランにはベレー帽を被ったオジサンたちが沢山たむろしていて、飛び交う言葉もフランス語とはちょっと違い、また人々の雰囲気自体がフランスとは随分違い、なるほど文化の違いを実感しました。
再び犬糞に注意を払いながら、オシッコ臭いエレベーターは今回は避けて階段を利用して、少々早めに駅に着くと、信じられないことに駅の売店も昼休みだったらしく、2時過ぎるとそろそろと金網のシャッターが上がっていきました。本数の少ない列車、間隔もあいているのですから、ほとんどが休み時間でしょうに。
列車は定刻14:22発。TGVは田舎へ行くと三、四輌編成なんてのもあって、これはとても時速300km出ないだろうと思いますが、パリ行きはさすがに充分長い列車が来ました。
長距離なのでみんな荷物が重く、低いホームから高い車輌へ持ち上げるのはやはり難事業のようです。
車窓からはcellure de pins(松の細胞、胞というような意味=製材所のようでしたが)という看板の工場に材木が沢山積んであるのが見え、植林された松はこんな所に使われるのかしらなんて考えました。
ボルドーを過ぎるとまた一面の葡萄畑。ブドウの種類が違うのか、出来るワインによって違うのか、まだ成育していないブドウの、植え方や剪定の仕方が畑によって随分違うものだと感じました。途中には広大な湿原も見られました。
3時間ぐらいたった頃、若い女性が客席に小さなカードとペンを配りに来ました。
私にはちょっと躊躇して、それでも置いていきましたので隣の女性に聞いてみましたら、「よく分からないけれど後でお金を取りに来る」とのことで、慌てて返却、周りの人も全員返していました。
車内でこんなことして良いのかしら?でもパリでは地下鉄の中などで、音楽演奏して稼いでいる人もいますね。私は一度カバンを盗られましたが、それも車内での商売?
パリ手前の最終停車駅Futuroscopeを過ぎると、今度は夕食の車内販売がやって来ました。メニューはフランスパンに何かを挟んだサンドイッチだけで、挟んである中身を選ぶだけです。パンも中身もとてもおいしいけれど、毎日ではねぇ。一生食べ続けて、よく飽きないものです。
フランスの駅や車内で「駅弁」を売ったら、日本のような繊細なサンドイッチや、唐揚げ、洋風幕の内などを売ったらさぞ喜ばれるだろうと、若い時の私は、パリで駅弁屋をしようと本気で考えたことがあるのですが、誰もやらないところをみると、あまり脈のない商売なのでしょうか。
どんなに急いでいても、かなり安いレストランでも、一皿づつ出しては片付けてから次の皿を出す習慣の浸透しているフランスでは、デザートまでが一度に視界に入るせっかちな幕の内はダメと、誰かに聞いたことがありますが。
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定刻19:50にパリ・モンパルナス駅着。ドゴール空港へ直接着くTGVは日曜日だけということで、ここからはエアフランスが出している空港シャトル利用になります。
時刻表に出ていた通りを目指して、バスはすぐに見つかりました。乗客は二人だけ、オステルリッツ駅にも寄りましたが、乗客は結局合計で十人くらいでした。
中にはやはりパリが初めての人だってあるのでしょう、運転席の後ろに貼ってある運行表を見ながら不安げにしている人もいました。
パリの町はまだラッシュを脱し切れていない時刻らしく、何ヶ所かで渋滞もありましたが、21:00にはドゴール空港に到着しました。 |
チェックイン締め切りは22:25分とのこと、荷物が多い人が沢山で列はなかなか進みません。
待合室で隣を見るとアラブっぽい濃い顔の青年が三人いて、時節柄ドキッとしました。
9.11事件でハイジャックしたのは同じ年頃の青年、命も惜しくないという彼らは搭乗前どんな表情をしていたのでしょう。隣の青年たちの落ち着かない挙動に私は不安に駆られてしまいましたが、考えてみれば初めての海外旅行ならば出発前に落ち着かないのは当たり前、顔や民族で十把一絡げにして疑ったりしてはいけませんよね。
そういう態度がどれほど罪のないアラブ系人を苦しめ、それが反発をも招いていることか、反省、反省。
私の隣は空席でしたが、機中はほとんど満席。冬の、戦争が始まりそうな時期にも、こんなに旅行している人がいる、旅行業者として教えられる思いでした。
女性の一人旅が随分多いこと、フランス人乗客の多くは、成田で乗り継いでニューカレドニアへのバカンスとのことでした。
2月26日(水)パリ出発が少し遅れ、成田到着も同じぐらい遅れました。家の方へ直通のバスは20:40なのでちょっと慌てましたが、手荷物一つなのでスピードで外に出られました。
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